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第40話 新しい朝


 肩に触れる寒さに、俺は目を開けた。白い壁が見える。朝だった。
 冬休みは昨日で終わり……。今日から大学が始まる。昨日から覚悟してたけど、いきなり心が折れそうだ。このまま布団の中で春まで冬眠していたい。
「おはよーございます! ご主人様っ。冬休みは昨日でおしまいです。さあ元気よく起きて朝ご飯食べて大学に行きましょうッ!」
 睡りに落ちかけた意識に叩き付けられる無駄に元気な声。皐月だった。重力に引かれるように落ちていく意識を、強引に引き上げる。
「あと、五分……」
 俺は布団に潜り込み、そう言い返した。
「ところで、ご主人様」
 楽しそうな皐月の声。
 経験的にこいつが俺を"ご主人様"と呼ぶ時は、ろくな事を考えていない。無茶なおねだりをするとか、無茶な事を閃いた時とか、何か無茶な事をしとうとしているとか。
「ここにバケツ一杯に入った氷水があるのですが、どうしましょう?」
「マヂか?」
 布団から顔を出し、俺は皐月を見た。
 いつもと変らないように見える。が。
「マヂです」
 素敵な笑顔で、皐月は青いバケツを持ち上げた。
 バケツには水がなみなみと注がれ、適当に砕いた氷が浮かんでいる。氷は冷蔵庫で作ったのだろう。昨日のうちから準備していたようだ。
「起きればいいんだろ」
 俺は布団をどかしベッドから降りた。目を擦りながら、室内サンダルに足を通し、身体を持ち上げる。寝てる時は起きるのは辛いが、起きてしまえばある程度は楽になる。
「ああ。残念――」
 ため息をつきながら、皐月がバケツを見下ろしていた。
「おい……」
 低く呻きつつ、唾を飲む。
 ごねていたら本当に氷水をぶっかけられただろうか? 皐月が普通のアンドロイドだったら答えは否だ。人間に危害を加えられないように、プロテクトが掛けられている。しかし、皐月はそのプロテクトがあって無いようなものだ。
「今日の朝飯は何だ?」
 目を擦りながら、訊く。朝飯は一日の基本である。朝食を食べずに学校や仕事に行く人間もいる。俺はパン一枚、おにぎり一個でも食べて起きたいタイプだ。
「カツ丼」
 即答してくる。
 俺は両腕を伸ばし、皐月の頬を摘んだ。頬を力一杯横に引っ張る。
「朝っぱらから、そんな重いものが食えるか」
「ういー」
 皐月の喉から変な声が漏れる。皐月の肌の感触は、人間とほとんど変らない。それでも、どこか違和感がある。特殊なシリコンで作られた人工皮膚組織。
 俺の腕を掴み、あっさりと外す皐月。
 ぱたぱたと右手を振りながら、
「冗談冗談。さすがにそんなもの作るわけないでしょ? 今日はトーストとベーコンエッグ、ミニサラダとホットミルクだよ」
「普通だ」
 普通の朝食内容に、俺は素直に安心する。……そういえば、こいつはよく変な料理を作りたがるけど、実際にその料理を作る事は滅多に無いんだよな。そこは良心なんだろうと、好意的に解釈しておく。
 皐月は一度頷いてから、微笑む。
「注文があれば、カツ丼くらいは作るけどね。そんなに時間かからないし。特大ケーキくらいまでは作るよ。フルコースとか満願全席とかは、要相談かな」
「注文することはないから」
 きっちりと俺は釘を刺した。
 窓辺へと歩いて行く。
 九階建てのビル。そのほとんどが、独身者や学生などに向けたアパートになっている。俺が住んでいるのは、七回の東から三番目の部屋703号室だった。
「ふあぁー」
 窓ガラス越しに日の光が入ってくる。
 朝六時三十分。この時間だと日は昇りきっていない。空は青く明るいが、まだ夜の闇が薄くヴェールのように残っている。
 数度深呼吸をしてから、俺は振り返った。
 皐月を見つめ、訊いてみる。
「何かいいことあったのか?」
「まあね」
 得意げに微笑み、胸を張る。
「メイド服新しいのに変ったんだ」
 スカートの裾を指で摘んで広げてみせる。
 身長百六十センチほどの女。少女と呼べるほど外見は幼くないが、雰囲気はどこか子供っぽい。腰まで伸びた亜麻色の髪の毛。髪の毛の先端を赤いリボンで縛っている。顔立ちは二十歳前後の女のものだが、表情はこどものそれである。瞳の色は茶色。凹凸の少ない細い身体に紺色のワンピースを纏い、白いエプロンを付けている。両足は白いハイソックスにスリッパを穿いていた。
「全然わからんぞ」
 俺は正直に答えた。いつも見ている皐月と変らぬ姿。言われて見ると服が新しくなったような気もするが、それ以外は何も変っていないように見える。
 皐月はワンピースの袖やスカートの裾を指で摘み、
「袖の長さとか裾の長さとか縫い目とか変ったんだけど、分からない?」
「わかるか」
 俺は正直に言った。


 テーブルに並べられた料理。
「美味い……」
 こんがりと焼けたトースト。微かに焦げ目の付いたベーコンエッグ。卵は半熟で、トーストと一緒に食べると非常に美味しい。レタスと水菜と薄切りトマトのサラダは、甘さと酸味の利いたドレッシングがかけてある。
 そして、シンプルなホットミルク。
 絵に描いたような、爽やかな朝の朝食だった。
「当たり前でしょう?」
 テーブルの脇に控え、皐月は得意げに口端を上げた。右手を自分の胸に当て、
「超高性能アンドロイドのわたしが作ってるんだから。重さや容積もきっちり量れるし、気温や湿度まで計算に入れた味付けが可能だよ」
 ハカセの作った超高性能アンドロイド。見るだけで、物体の体積や容積を計算し、赤外線を用いて、温度を測ることもできる。手で持つだけで、調味料から食材までミリグラム単位で重さが分かる。そして、精密機械のように、速く精確な動きも可能、
 この多彩な機構を駆使して作られた料理は、数学的に非常に美味しいものとなる。
「無駄に高性能だな」
 トーストを囓りながら、俺は感想を口にした。
「その"無駄"はいらないでしょ。普通に高性能って言いなさい」
 両腕を腰に当て、皐月が言い返してくる。
 よく自分を"超高性能"などと自称している皐月。ただの自意識過剰にも思えるが、超高性能なのは紛れもない事実だった。
 ホットミルクを一口飲み、俺は口を開く。
「そういえば、お前って何のために作られたんだ?」
「何のためって?」
 瞬きをする皐月。質問の意図が呑み込めなかったらしい。
「うちでメイドごっこするために作られたわけじゃないだろう。これはあくまで、途中の訓練みたいものだろう? ハカセは心を持つ機械を作りたいとか言ってたけど、それがどういう事なのかは俺もよく分からないんだけど」
 皐月の機能は凄まじいものである。はっきり言ってメイドだけをやらせるには、オーバースペックだ。俺は皐月は他の目的があって作られたのだと考えている。メイド仕事はあくまで何かの練習。そして、ハカセのアンドロイド工学での目的は心を持つ機械。そう考えると、皐月には俺のような凡人には想像も付かない大きな何かがある。
「そういわれてみると、何だろうね?」
 顎に手を当て、皐月は首を傾げた。俺の妄想――もとい、熟考を粉砕するような軽い答えだった。こういう疑問には興味ないのかも。
「そこは自分でも理解してろよ……」
 俺の呻きに、皐月は困ったように微笑んだ。
「マスターって天才な上に性格変ってるから、普通の考えが通じないんだよね。わたしも作られてから十九年経つけど、マスターが具体的にわたしをどうしたいかは、まだよく分かっていないんだ」
「難儀だなー」
 皐月に言葉に、俺はただそう返した。


 いつもより少し早く、家を出た。
 きれいに手入れされた庭を歩いていく。視界の端っこで庭師ロボットが植木の手入れをしていた。どこにでもある自動機械。ハカセはこういう機械に違和感があるらしい。そう愚痴を言っていた事を思い差す。
 俺はポケットに手を入れ、
「あ」
 定期入れが無い。久しぶりの大学で忘れていた。
 仕方ない。戻るか。
「おーい、忘れ物」
 振り返った俺は、視線を上げた。七階のベランダに皐月が立って、右手を振っている。俺が出て行ってから、定期入れを発見したんだろう。
 そういえば一番最初、いきなりこの高さから飛び降りたな……。
 過激な思い出を噛み締めていると。
「ん?」
 定期入れが宙を舞っていた。蝶のように鳥のように空中を羽ばたきながら、俺目掛けて飛んでくる。単純に投げたらしい。
「投げるなー!」
 叫びながら、俺は落下地点を計算し、両腕を持ち上げる。
「っとぉ!」
 落ちてきた定期入れを両手で受け止める。腕に掛かった衝撃は予想以上のものだった。定期類しか入っていないが、二十メートルの位置エネルギーは大きい。
 背筋を撫でる悪寒。
 俺はすぐさま皐月を見た。
「っ!」
 しかし、視界に入ったのは黒い長方形だった。一瞬の困惑の後、それを自分の財布だと認識する。定期入れと一緒に忘れていたのだろう。いくらかの紙幣と小銭、カード類の入った皮の入れ物。重力に従い、落ちてきた。
 めこっ。
 財布に顔面を直撃され、俺はその場に沈む。
 涙のにじむ目。痛む鼻。顔を押えながら、俺はふらふらと起き上がった。
「大当たりッ!」
 右腕を真上に振り上げ、皐月が嬉しそうに飛び跳ねている。
「そこ喜ぶトコじゃねえええ!」
 ビシッ! と人差し指を突きだし、俺は叫んだ。

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12/1/27