Index Top 第4章 物語は急展開する

第1節 ハドロ・クオーツ


「一矢ぃぃ……」
 テイルは首筋に突きつけられたナイフを見つめ、涙声を漏らす。
 テイルを捕まえているのは、三十代半ばの男だった。長い茶色の髪に、見下すような感情の込もった瞳、身体は細いが決して痩せているわけではない。着ているものは、黒い上着に白いズボンである。左手でテイルを掴み、右手に持った細いナイフをその首筋に突きつけていた。
「ハドロ……ついに来やがったか」
「動くなよ。シギ」
 呻くシギに、ハドロが告げる。
 テイルを人質に取られていては、迂闊な行動はできない。シギは剣を下ろし、憎々しげにハドロを睨んでいた。メモリアはうっすらと恐怖のこもった眼差しでハドロを見つめている。アルテルフはごく自然に立っていた。
「この妖精の命が惜しければ、鋼の書を渡せ。まずは本を閉じろ」
 言われるがままに、一矢は鋼の書を閉じる。鋼の書は大事だが、テイルの命の方が何倍も大事である。閉じないわけにはいかない。
「ではそれを俺によこせ……。いや、セイクに渡せ」
「セイク?」
 呟いていると、アルテルフが一矢の目の前までやって来た。疑問に思っているうちに、右手を差し出してくる。申し訳なそうに言ってきた。
「騙していて悪かった。私はアルテルフ博士じゃない。私の名前は、セイク・シード。クオーツ研究所の研究者さ――。今まで、アルテルフ博士になりすましていた。白の剣も既にハドロ所長の手に渡っている。君たちの負けだ」
「………」
「鋼の書を渡してくれないか――? 君が渡すのを拒めば、ハドロ所長は、ためらいなくテイル君を殺す。私は彼女を死なせたくない」
 傷の痛みに耐えながら、一矢は鋼の書をセイクに渡した。鋼の書の硬い感触だけが手に残る。その手には、何も残っていない。だが、諦めてはいけない。
「一矢……」
 テイルが呟く。
 セイクはハドロの元へ歩いていき、無言で鋼の書を差し出した。
 ハドロはテイルを掴んでいた左手を開き、鋼の書を受け取る。解き放たれたテイルが急いでその場を離れた。攻撃が届かない空へと。
「これで人質はいなくなったな」
「そうだな。だが、お前は死ね」
 呟くとともに、ハドロは僅か半挙動で右手のナイフを投げ放つ。銀色の刃が空を切り、一矢の胸めがけて飛んでいった。意識はそれを捉えていたが、身体が動かない。
 当たると思った、その時――
 一矢の胸の前に腕が突き出される。ナイフがその腕に突き刺さった。
「ハドロ所長……。もう誰も殺さない……約束でしょう……?」
 左腕に刺さったナイフを見ながら、セイクが呻く。一矢の前に腕を突き出したのは、セイクだった。ナイフを引き抜き、ハドロを睨みつける。
「約束なんか、破るためにあるようなもんだ。俺の目的は鋼の書を手に入れることだけ、お前との約束なんかどうでもいい」
 左手に持った鋼の書を見つめ、鼻で笑うハドロ。
「毒か……」
 セイクはその場に膝をついた。その顔色は目に見えて悪い。傷口を見つめたまま、倒れる。それで気を失ってしまったのか、動かなくなった。
「どっちにしろ、お前に武器はない!」
 シギが剣を構えて、走る。ハドロは何の反応も見せない。冷笑を浮かべて、向かってくるシギを見つめていた。二人の間合いが縮まり……
「シギさん、危ない!」
 メモリアの叫び。
 それを聞いたのかは分からないが、シギは左に跳んだ。シギがいた空間を、黒い残像が通り過ぎる。それは腕だった。ナイフのような爪を持った黒い腕が、空間にできた裂け目から突き出している。
 その裂け目から、肩、胸、頭、胴体、翼、足と、漆黒の魔物が現れた。
 それは、ディーヴァである。しかし、先のものより一回り身体が大きく、放っている殺気も威圧感も比較にならない。素人目にも、ただのディーヴァでないことが分かる。
「俺が魔道技術を駆使して作り出したグレートディーヴァ。名前はエイゲアだ。俺の忠実なしもべさ。行け――」
 エイゲアが無音の咆哮を上げ、シギに向かって突進していった。
 突き出された爪を、シギは剣で受け止める。しかし、力はエイゲアの方が勝っていたようだった。シギの足は十メートル近く地面を削る。
 シギは一歩後退し、剣を突き出した。それをエイゲアが受け止める。
「破鋼斬!」
 神気が爆ぜた。エイゲアが横へと吹き飛ばされる。
 シギから目を離し、一矢は近くに落ちた刀を拾い上げた。
「ハイ・リカヴァリィ」
 メモリアの魔法によって、腕と足の傷が塞がる。皮膚がつながっただけで完治したわけではないが、動くことはできるだろう。メモリアも表情を硬くして、杖を抜いていた。シギの方は、一人でも大丈夫だ。
「ハドロ……」
 一矢は呟いた。囁くような声だが、相手には聞こえているだろう。
「鋼の書を返してもらう」

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12/2/26