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第3節 結奈のお願い |
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慎一は後ろに跳んだ。 結奈との距離は五メートルほどに開いている。反応が一拍子遅れてしまった。十分の一秒に満たない時間。油断していたことは素直に認めることにした。 両手を下ろして、結奈は楽しそうに微笑む。 反省は手短に。リュックを下ろし、慎一は尻尾を動かした。 「……何がしたいんだ?」 狐神の姿に戻っている。結奈が振り向きざまに変化の術を解いたのだ。ただの変化の術である。解術に対する防御を行っているわけではない。 「へー。美人ね」 「ありがと」 慎一は答えた。手早く靴を脱いで靴下も脱ぐ。狐神の姿では、足のサイズが五ミリ小さくなっている。裸足の方が自由に動けるのだ。 両手両足の指を解すように動かしながら、 「もう一度訊く。何がしたいんだ? 解術が出来るってことは霊術の心得があるってことだよな。僕と同じ退魔師……しかも強い。準一級クラス」 退魔師。神や妖などとの齟齬を正すことを仕事とする人間の通称である。細かい区分はあるが、それを律儀に記憶する者は少ない。 結奈は爪先で床を叩いた。 「あたしの本名は沼護結奈。沼護分家の次女よ。あんたが狐神になったってことは話に聞いてたわ。デマだと思ったんだけど、ホントだったのねー」 「沼護か……」 慎一は小声で繰り返した。 影使いの沼護。影獣と呼ばれる獣を使役し、医療行為にも長ける一族だ。力は強く、日暈家と同じく守護十家の一員である。ただ、結奈は分家の次女でおそらく見習い。負ける相手ではない。 慎一は横を向いて銀色の眉を落とした。 「気づかなかった」 「隠してたからね。あんたみたいに脳天気じゃないわよ」 「そうかも」 結奈の正論に、あっさり同意する。 次男である自分は、日暈の秘伝まで教えられていない。正式な退魔師にはならず、準退魔師として補助的な仕事を行う。兄よりも気楽な人生を送ることができた。普通に人間として生きていればだろうが。 慎一は狐耳の先端を指で摘んだ。 「結局何がしたいんだ?」 「あたしと戦って♪」 ズン―― 突き出した左拳が止まる。腕に返ってくる重さ。 結奈の前に現れた二本足の黒い狼が、慎一の拳を受け止めていた。影で作られた狼男という風貌。影獣は主に狼の形状を取り、使役者の身体や影から現れる。 「さすが日暈、手が早い」 影獣が腕を動かした。斜め下からの開手と、黒い爪。 迷うこともなく前進。慎一は懐に飛び込み、影獣の手首を左肘で打ち、右手の五指を伸ばした。遅滞のなく繰り出される貫き手が、狼の胴体を打抜く。 だが、効いていない。定形を持たず、急所も痛覚もない獣だ。バラバラに飛び散った後、五匹の狼に姿を変える。 「……これで倒せるとは思ってないさ」 素直に認め、慎一は三歩跳び退いた。 不規則に駆ける五匹の狼。動きは予想よりも三割ほど速い。一度左右に散り、跳んだ。狙いは両手両足と首。四肢を拘束して首を食い千切る。 慎一の指先に灯る青白い炎。 「散れ!」 狐火が影獣を呑み込んだ。 一千度を超える炎。狐族ならば子供でも使える初歩的な術だ。それでありながら、攻撃力は大きい。草眞から最初に教えられた術である。 踵を打ち、慎一は後退から前進に変えた。裏拳を三度閃めかせ、狐火に巻かれた狼を撃ち払う。黒い燃えカスのようなものが弾けて床に散った。 三歩進んで、結奈の眼前に拳を突きつける。尻尾を動かしながら、 「合格か?」 「及第点ってところね」 結奈は一歩下がった。 床に散った黒い欠片が、結奈の足下に集まり、影に消えた。 武器もない。防具もない。術もない。怪我もない。何も壊れていない。戦いと呼べるものではなかった。準備運動にしかなっていない。守護十家の人間同士が本気で戦ったら、屋上が使い物にならなくなるが。 「何度でも訊くぞ。何がしたいんだ?」 「尻尾触らせなさい」 両手の指を組み、結奈は笑う。眼鏡越しにきらきら輝く黒い瞳。 慎一は尻尾をぴんと立てた。 「尻尾?」 「そうよ。尻尾よ、シッポ。あんたのそのふさふさの尻尾触らせなさい。妖狐とか狐神とかには、面と向かって尻尾触らせてなんて言えないからね。でもあんたは元人間だから言わせてもらうわ。尻尾触らせなさい」 わきわきと指を動かす結奈と、頬を引きつらせる慎一。 狐に限らず、獣族は他人に尻尾を触らせることはない。最大級の無礼だからである。無断で触ったら殴り倒されても文句は言えない。 「一回だけだぞ」 そう言って、慎一は尻尾を向けた。 「ありがとゥ!」 結奈は尻尾に抱きつき、思い切り撫で回す。右手で尻尾を抱え込み、銀色の毛に左手の指を通しながら、恍惚の表情で頬摺りをしていた。 「あぁ。この手触り、毛並み。ふさふさもふもふー」 「むぅ」 尻尾を自分で触るのは気持ちいい。だが、他人に触られるのは気持ちのいいものではない。足の裏などを撫で回されているようなものだ。無礼なのも理解できる。背中を駆け上がるぞざぞわとしたむず痒さ。 振り返りながら、慎一は呻いた。 「もういいだろ?」 「あと一分」 尻尾を抱きしめ、結奈が答える。 慎一は口をもごもご動かし、目を逸らした。喉の辺りに異物が詰まったような感覚がある。空を見上げると、青い空に積雲がいくつか浮かんでいた。 「っ!」 胸を鷲掴みにされて、意識を引き戻される。結奈がシャツの中に両手を突っ込み、具合を確かめるように両乳房を揉んでいた。 「んー。八十九のCってところかしら? 背が高いから、数値が大きくても実際は控えめなのよね。張りと柔らかさは九十五点。でも、ブラ着けてないと垂れ――」 結奈の左頬に慎一の右拳がめり込む。 生々しい音。歪む顔面。悲鳴は聞こえなかった。 冗談のように吹っ飛び、空中で三回転してから落ちる結奈。 だが、床を叩いて跳ね起き、駆け寄ってきた。頬にくっきりと跡が残っている。生身の人間ならば顎が割れるほどの力で殴ったのが、平気そうだった。 「何すんの! 痛いじゃない!」 「それはこっちの台詞だ!」 両手で胸を押さえ、慎一は顔を真っ赤にして言い返す。強制猥褻で捕まるようなことを平然と実行する神経が理解できない。 結奈は腕組みをすると、フンと鼻を鳴らした。 「いいじゃない。女同士なんだから」 「じゃあ、お前のも触ら――」 言い切る前に、顎を打ち上げられる。 狐耳と尻尾をぴんと伸ばし、慎一は仰け反った。目蓋の裏に星が飛び、意識が飛びかける。人間とは思えない強打。だが、倒れる前に踏み留まった。 「女の子相手に何トチ狂ったこと言ってんの! あんた、変態?」 「言ってること三秒前と違うだろ!」 仰け反った身体を戻す勢いで、結奈の頭に組んだ両拳を叩きつけた。 深く身を沈めるものの、結奈は踏み留まる。身体を跳ね上げ、慎一のみぞおちに拳を打ち込んだ。カウンターの左拳が頬を捕らえる。 だが、倒れない。お互いによろめいてから、クロスカウンター。 がしがしと十秒ほど殴り合ってから、疲れて手を止める。 「やめよう。無意味だ」 「そうね」 慎一の提案に、結奈は同意した。 守護十家の人間は、ハンマーで殴られても平気なように鍛えられている。生身でさえ、鉄のように頑丈だ。術を使わない素手での殴り合いで決着がつくことはない。 「あんた、明日三コマ目で終わるでしょ?」 結奈が言ってきた。 「それがどうした?」 「明日あんたのアパートに行くわ。見せたいものがあるの。面白いものが手に入れてね。でも、あたしの手には余るのよ。だから力が借りたいの。オッケイ?」 慎一は尻尾を曲げた。訊き返す。 「……何なんだよ?」 「明日のお楽しみー」 ウインクしながら答え、結奈は歩き出した。振り向きもせずに慎一の横を通り過ぎ、階段に消える。ばたんと扉が閉まった。結局、何が何だか分からない。 「戦った意味ないだろ」 慎一はぼやいた。 |