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第2節 待っていたのは


 部屋は本に埋もれている。
 歴史や考古学の本から工学や物理学の本、漫画や小説から、物陰にはお子様禁止の本まで混じっていた。積まれている本に一貫性はない。
「前に来た時よりも本が増えている気がする」
 慎一は研究室の奥に進んだ。
 四十歳代半ばの男が、机に突っ伏して寝ている。がっしりした体躯と癖の強い黒髪、剃り残しの目立つひげ。額に巻いた赤いバンダナ。ジーンズとシャツの上に、なぜかきれいな白衣を着ている。
 近くには空の缶ビールが二本。飲みかけのブランデー。
「先生、起きてください」
 言いながら、慎一は肩を叩いた。
 片桐宗次郎准教授。大学では材料力学などを教えていて、文芸部と漫画研究会の顧問を勤める。作家も兼業し、年に五冊ほどの本を出版していた。本能の赴くままの人生を信条として、気ままな生活を送っている。しかし、約束を破ることはなく、論文や小説の質も高いため、信用は高い。
「うおー……。あー」
 宗次郎は目を開けて背伸びをする。欠伸をしながら頭をかいた。昼寝でなく、熟睡していたらしい。いつものことだが、教職員とは思えない。
 ぐるりと視線を巡らせてから慎一に気づき、右手を挙げた。
「慎一かー、久しぶりだなー」
「……講義も会議もないからって、昼間から酒飲まないで下さいよ」
 指摘するが、宗次郎は聞こえないふりをする。
 ぱたぱたと手を動かしながら、続けた。
「しっかし、お前も災難だったな。インフルエンザで一週間入院だって? サークルの連中も心配してたぞ。でも、こんな時期かかるものなのか?」
 さすがに怪しまれるため、大学には偽の診断書と欠席届けを提出していた。この時期にインフルエンザもないのだが、追求してくる者もいない。
「どこかで拾ったんでしょうね、きっと。稀に夏でも掛かるらしいですから。朝起きたら身体が動かなくて、びっくりしましたよ」
 他人事のように笑う。思い出したのは、狐神になったことだ。目が覚めたら自分が自分でなくなっていた。誰でも驚くだろう。
 慎一はリュックから本を取り出し、宗次郎に差し出す。
「これ、約束の本です。遅くなりましたけど」
「おう。サンキュー」
 宗次郎は本を受け取り、机の引出しにしまった。引出しを押し込んでから、慎一に向き直り、パンと両手を打ち合わせて頭を下げる。
「すまん。図書カードは後日で頼む。来るのが遅いから、本買うのに使っちまった」
「そうですか。でも、トボけたら暴れますよ」
 真顔で告げると、宗次郎はきっと表情を険しくした。
「俺が約束守らなかったことあるか?」
「ないですけど。どうにも信用出来ないんですよ」
 慎一は目蓋を下ろし、宗次郎を見つめる。約束自体は守るが、約束していないことについてはいい加減だ。現に渡すはずの図書券を使ってしまっている。
「一週間以内に用意する」
 そう断言してから。
 思い出したようにぽんと拳を打つ。
「結奈がお前のこと探してたぞ」
「木野崎?」
 木野崎結奈。漫研部員の二回生で慎一の友人である。人並み外れた行動力を持ち、突拍子もないことを思いついて他人を振り回すことが多い。その結果は、吉と出ることも凶と出ることもある。
 簡潔に表すならば、トラブルメーカー。
「何の用があるのかまでは聞いてねぇ。会えば分かるだろ」
 両腕を広げてから、再び机に突っ伏す。
「では俺は昼寝の続きを楽しむことにする……」
 言って目を閉じた。ほどなく寝息が聞こえてくる。
 何も言わずに、慎一は踵を返した。研究室を横切り、ドアに向かう。結奈が自分を探している理由は分からないが、また何か閃いたのだろう。
 部屋を出たところで、足を止めた。
「遅かったわね」
「木野崎……?」
 瞬きをする。
 目の前に仁王立ちする女。
 歳は十九歳で、身長は百六十センチほど。芯の通った骨太の体躯。ポニーテールにまとめた長い黒髪と、縁のない眼鏡。着古した緑色の半袖ジャケットに白いスラックスという出で立ち。夏も近いというのに暑そうである。
「僕に用があるって言ってたけど、何でこんな早いんだよ」
「研究室に入るあんたを見かけたのよ。入る前に声かけてもよかったんだけど、用事が終わるまで待ってたわ。感謝しつつ、あたしと一緒に来なさい」
 命令口調で言ってくる。他人のことを考えていないのは毎度のことであるし、よく分からないことを言い出すのも毎度のことである。
「と――その前に」
 結奈はぐっと顔を近づけてきた。眼鏡の縁が怪しくきらめく。
 慎一は後ろに下がった。背中がドアに当たる。
「何、だよ……?」
 訊くが、結奈は答えない。右手を伸ばして、逃げられないように慎一の左腕を掴む。万力のような握力。振り解けないわけでもないが、居心地が悪い。
 胸に顔を近づけ、結奈はくんくんと鼻を動かした。五秒ほど匂いを嗅いでから、掴んでいた手を放す。一人納得したように頷いた。
「噂は本当みたいね。にわかには信じられないけど、そんなこともあるわね」
「何なんだよ?」
「いいから来なさい」
 そう言って、歩き出す。
 慎一は頭をかいてから、後に続いた。何が何だか分からない。突拍子もないことを言い出すのは毎度のことである。だが、今日はいつになく嫌な予感がした。
 廊下を抜け、階段を昇る。三階、四階と通り過ぎ、屋上へ向かっていた。
「屋上で何する気だ?」
「実はゴールデンウイークに秋田まで出かけたのよ。あんたが群馬の山奥に出かけてる頃ね。東北自動車道をかっ飛ばして片道八時間。疲れたわー」
 笑いながら話しかけてくる結奈。答えになっていない。
 分厚い鉄の扉を開け、屋上の中央へと足を進める。
 午後四時五十分。五月の半ば。夏至が近いため、空は明るい。人の姿はなかった。放課後の暑い中、屋上で休むような物好きはいない。
 慎一は呻いた。
「何がしたいんだ?」
「……んー」
 結奈が振り返ってくる。ふらりと揺れるポニーテール。
 にっこりと笑って、一言。
「キツネって好き?」

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