Index Top 目が覚めたらキツネ

第1節 久しぶりの我が家


 ピピピ。ピピピ。ピピピ。
 聞き慣れた電子音で、慎一は目を覚ました。
 手を伸ばして、目覚まし時計を止める。
 朝の七時三十分。
 目蓋を擦って重い身体を起こし、カレンダーを見る。五月の第二月曜日。先週は月曜日から金曜日まで一週間も大学を休んでしまった。講義を一度休んでも単位を落とすことはないが、二度三度と休んでいるとさすがに危ない。
「今日は、大学行かないとな」
 自分に言い聞かせるように呟く。
 大学近くのアパート。慎一は六畳の洋間に置いたパイプベッドに寝ていた。傍らには、本と電気スタンド、手製のナイトテーブル。部屋の向かい側には、窓際からテレビにパソコンデスク、姿見が並んでいる。
「相変わらず、この身体は寝起きが悪い……」
 慎一は自分の手を見つめた。
 水色のパジャマから伸びる手。細い指と白く滑らかな肌。丁寧に切り揃えられた爪。指を曲げたり伸ばしたり、手を握ったり開いたり、思った通りに動く。
 視線を胸元に落としてみると、パジャマを押し上げる胸の膨らみ。
 両手を当ててみると、むにむにとした柔らかい手触り。大きくもなく小さくもなく――普通の大きさだろう。自分の胸を触っても嬉しくはない。
 ズボンの股間に手を当ててみる。
 本来ならあるはずのものは、ない。
 分かってはいた。理解もしていた。納得もしていた。覚悟も決めていた。
 だが、未練はある。
 慎一は室内サンダルを履き、姿見の前まで歩いた。
 白いパジャマを着た、狐神の女。自分自身。美人だとは思う。
「五千円の図書カードで人生が狂った」
 文芸部顧問の片桐宗次郎准教授。図書券を餌に群馬の山奥にある大戸門神社へのお使いを募り、慎一が引き受けた。欲しい本があったのである。
 その結果が、今の狐神の女。
 ベッドに腰を下ろし、尻尾を前に持ってくる。銀色の毛に覆われた尻尾。最初は戸惑ったが、もう慣れた。右手で撫でると、何とも言えぬ心地よさを感じる。
「この身体に不満はないけど……」
 筋力は以前と同じくらいで、術力は変わらず。術の根源は魂。力を生み出す機構が極端に違わなければ、本来の出力を維持できるのだ。草眞の分身ならば、元と同じ力を出せる。霊力が法力となってしまったが、使える術に違いはない。
 だが、もう人間ではない。
 草眞の処罰は減給と謹慎半年だけで済んだ。慎一の口添えもあったが、日暈宗家の当主である祖父の恭司が慎一の事件自体を不問としたからである。
「爺ちゃん、草眞さんに借りを作るのが目的か? 身内でも利用しなきゃならないのは理解しているけど、交渉の駒にされるのはいい気分じゃないよな。ってか、『孫娘が増えた』って何だよ、孫娘って!」
 恭司から送られてきた手紙に、そんな事が書いてあった。
 予想外に早く事後処理が終わり一週間が経つ。草眞に狐神のイロハを叩き込まれ、昨夜帰宅。壊れた車は術で直した。准教授から借りた車なので、壊れたままでは困る。
「落ち込んでも仕方ないか」
 気を取り直し、尻尾から手を離した。尻尾を撫でるていると気分が落ち着く。放っておくと一日中続けそうなので、切りのいい所で止めなければならない。
 慎一はパソコンデスクに目をやった。
 黒いノートパソコンの上に置かれた本。神話を題材にしたもので、風浪伝という。江戸時代に書かれた大衆小説だ。准教授が欲しがっていた本である。
「元凶……」
 五秒ほど見つめてから。
 慎一は隣の小箱を開けて黒い腕輪を取り出した。
 黒い平紐と赤と白の玉から作られた腕輪。遺髪と血骨から作られている。
 左腕に通し、慎一は両手で五つの印を結んだ。
「変化」
 法力が身体を変質させる。
 髪の毛が縮み、色が変わり、顔立ちが変わり、骨格が変わり、筋肉が変わり、脂肪が変わり、肌が変わり、身体が角張り、狐耳と尻尾が引っ込み――
 元の姿に変化した。
 姿見に映るのは、二十歳ほどの男。身長は変わらない。筋肉質の細身で、淡泊な顔立ち。さっぱりと切られた黒髪。長年見慣れた自分本来の姿だった。
 何度か回って変化の出来を確認する。
 問題なし。
 ――ではない。
 胸に手を当てる。
「待て。下着そのままだ……」
 慎一は慌てて変化を解いた。

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