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第1節 現れたキリシ |
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それから、ヴァレッツ科学研究所に着くまでそれほど時間はかからなかった。 しかし、数時間も経過したように感じる。 研究所の正面に消防車を止め、四人は車から降りた。 辺りは不気味なほどに静まり返っている。人の姿もなく、風の音も聞こえない。辺りを照らす白い月明かりの中、ティルカフィたちの足音だけが響いている。それがなければ、完全な静寂が訪れるだろう。 「あれだけ大暴れしながら走ったんだ。この付近の住民は全員避難している。警察の追跡も振り切ったから、俺たちの行方は今のところ誰も知らない。奴らも適当な情報操作で、研究所には誰もいないことにしているだろ。ここで派手に戦っても、しばらく邪魔が入ることはないはずだ」 誰へとなく言いながら、ハーデスはペイルストームを抜いた。 研究所の門は開いている。まるで自分たちを迎え入れるように。 「あからさまに罠の匂いがするな」 大刀を抜き、鼻を鳴らす陽炎。尻尾が跳ねるように揺れる。 「でも、罠みたいなものはないわよ。誰かが潜んでる様子もないし――」 眼鏡を動かしながら、ルーが呟いた。ただ、声に自信はない。ルーの透視、探知は完璧ではないのだ。時々だが、見落としをすることもある。 ティルカフィはキリシの剣を抱えたまま、不安そうに眉を傾けた。 「キリシさん、大丈夫でしょうか……?」 それが自分にとって一番心配なことである。 「迷ってる時間はない。行くぞ――」 言うが早いか、ハーデスは一人歩き出した。 陽炎、ルーも後に続く。 遅れて、ティルカフィは研究所の中へと足を進めた。 舗装された一本道を慎重な足取りで進んでいく。 道の両側には何本もの広葉樹が生えている。ヴァレッツ科学研究所は、その広大な敷地のあちこちに木が植えられているのだ。建物がなければ、森林公園にも見える。夜ともなれば、鬱蒼と茂る木々が不気味でもあった、 やがて中央広場にたどり着く。 正面には、十階建ての建物が佇んでいた。研究所の中央棟。しかし、明かりはついていない。他にいくつかある研究棟も同じで、まるで無人のように感じる。 「そろそろ何か動きがあってもいいはずだがな……」 周囲に警戒の眼差しを向けながら、陽炎が呻いた。広場を堂々と歩いているのに、銃撃はおろか、声のひとつも聞こえてこない。 前触れなく、ハーデスが呟く。 「来た――」 その一言に全員が足を止め、身構えた。 しかし、何も起こらない。 「おい……。脅かす――」 文句を言いかけた陽炎の動きが、止まる。顔を強張らせ、視線を中央棟に向けられたまま、石のように硬直していた。 暗闇に目を凝らすと、中央棟の方から誰かが歩いてくる。 聞き慣れた声が聞こえてきた。 「みんな、ずいぶん遅かったな」 「キリシさん!」 反射的にティルカフィはキリシに駆け寄ろうとして。 目の前に突き出されたハーデスの腕に、足を止める。 「遅かったな」 いつになく鋭利な光を宿したハーデスの瞳は、歩いてくるキリシを見据えていた。 それを見て、陽炎が凝視している相手もキリシなのだと悟る。 「キリシ、あなた……」 怯えたようなルーの声。 やがて、キリシはティルカフィの目にも見える所までやって来た。 そこで足を止める。 「うそ……?」 ティルカフィは持っていた剣を地面に落とした。 カツン、と乾いた音が妙にはっきりと響く。 「さすがに驚いたか――」 左手に持った白い大剣――《銀色の杖》を肩にかつぎ、キリシは寂しそうに笑った。 その姿は既に人間ではなかった。薄茶色だった髪は白銀色に染まり、生い茂るように伸び乱れている。瞳は鮮やかな緑色。細めだった身体も、一回り大きくなり、節くれだっていた。見た目は人だが、その風貌はむしろ獣に近い。服もあちこちが破れ、生々しい鮮血がこびりついている。 「一体、何があったの……?」 不安を隠しきれない声音で、ルーが尋ねた。 キリシは答えない。目を背ける。 次いで、ハーデスが口を開いた。 「チェイサーたちはどうした?」 「死んだ」 今度は遅滞なく答える。キリシの緑色の瞳には、恐ろしく冷たい光が映っていた。ハーデスの持つ冷たさとは全く異質な輝き。何もない虚無のような冷たさである。 |