Index Top 不条理な三日間

第5節 緊急事態


 休憩は五分ほどだった。
 回復魔術で全員の傷を治し、誰も何も言わぬままその場に腰を下ろす。本当ならば一日以上そのままでいたかったが、今はどんな時間も惜しかった。
 誰からとなく起き上がり、堤防の方へと歩いていく。
「そういや……」
 何かを思いついたように、陽炎が口を開いた。声には少なからぬ疲労が残っている。完全に回復していないのだろう。だが、視線には強い疑問がこもっていた。
「チェイサーの奴、本当に研究所に戻るのか? ルーの探知能力は十キロが限界だ。あいつもそれを知ってる……。研究所に戻るって見せかけて、どこか他の遠い所に逃げるって考えられないか?」
「いや、チェイサーはほぼ間違いなくヴァレッツ科学研究所に戻る」
 崩れかけの堤防を登りながら、ハーデスが断じる。
「奴は研究所以外に戻る場所がないからな。カシアク市の近くにあんな巨大な怪物が隠れられる場所はないし、情報操作の利くような施設もない」
「もうひとつ……」
 堤防の一番上まで来たところで、陽炎が足を止めて苦々しく呻いた。
「研究所は市の反対側だ。普通に歩いて半日以上かかる。俺とお前がティルカフィとルーを抱えて全力で走っても、確実に三時間はかかるぞ」
 そこまで言ってから耳の後ろを指でかく。自然と全員の足が止まっていた。
 陽炎は皮肉げにハーデスを見やる。
「だが、研究所に着いても、お前はともかく俺は動けない」
「車でもあればね……」
 無念げにルーがため息をつく。
「ねえ――」
 ティルカフィはやや気の抜けた声をこぼした。ゆらりと人差し指を上げる。
 指差す先に、いくつもの赤い光がちかちかと点滅していた。見ているうちに、光は段々と大きくなっている。近づいてきているらしい。ついでに、サイレンの音も聞こえてきていた。音も段々と大きくなっている。
 三人もその方向に視線を移した。
「……さすがに暴れすぎたみたいね」
 そう呟き、ルーは後ろを振り返る。
 既に魔術の明かりは消えて見えにくいが、堤防の下は半ば焦土と化していた。元の草地は見る影もない。いくら人気のない場所でも、戦場のように何度も爆発が起これば、そのうち誰かが気づくだろう。
「見つかったら……まずいんじゃないですか……?」
 言いながら、ティルカフィは他の三人に目を向けた。ここで人に見つかれば、また色々と騒ぎになるだろう。騒ぎになればキリシを助けに行くのが遅くなってしまう。その前に、ここを離れなければならない。
 ティルカフィはそう考えたが……
「緊急事態だ。拝借させてもらう」
「え?」
 ティルカフィが呟いた時には、ハーデスは動いていた。一跳びで堤防の下まで降りると、暗闇の中に消える。それからしばらくして。
 ドン! という音とともに爆発が起こった。ハーデスが炸裂弾を放ったのだろう。
「ええと……」
 この時になって、ティルカフィもようやくハーデスの言葉を理解した。
 点滅する光とサイレンが、ひとつだけ急速に近づいてくる。ハーデスが「拝借」した車のだろう。ティルカフィは、陽炎、ルーと一緒に呆然とそれを眺めていた。
 堤防の真下に、一台の消防車が停止する。
 四人乗りの赤い消防車。その窓から顔を出して、ハーデスが手招きした。
「乗れ」
「…………」
 言われるがままに、ティルカフィたちは堤防を降りていった。
 急いで扉を開けて、消防車に乗り込む。ティルカフィが助手席、陽炎とルーが後部座席に座った。ルーが扉を閉めるよりも早く――
「行くぞ」
「きゃぁ!」
 消防車がとてつもない加速度で発車する。反動で扉が閉まった。
「お前ッ!」
 陽炎が叫ぶ。肩越しに見ると、その顔には明らかな動揺の色が浮かんでいた。という以前に、この状態で平静でいられるわけがない。
「いいのか、オイ! これって、強盗じゃないか……?」
「そうだな」
 涼しげに肯定するハーデス。ハンドルを両腕で握ったまま、アクセルを限界まで踏み込んでいる。速度は既に時速百キロを超え、さらに加速していた。
「だが、これから起こるだろう事態に比べれば些細なことだ――」
 言ってから、息継ぎほどの間を置いて、
「お前たちも気づいているだろうが、チェイサーは理性を半分失っている。《銀色の杖》の力を限界以上に取り込んだ副作用だ。あれは人間に扱える代物ではない」
 確かに、ドラゴンになったチェイサーは目の色は普通ではなかった。周りのことが目に入っていなかったようでもある。どちらも似たようなものだが。
 突然、ハンドルが右に切られる。
「わあああ!」
 急激な遠心力で、ティルカフィは助手席の扉に押し付けられた。後ろで車体が何かに擦れたのか、激しい摩擦音が聞こえてくる。視界の端に火花が映った。
 狭く暗い道を、消防車は信じられないような速さで駆け抜けていく。
 ティルカフィは大急ぎでシートベルトを締め、キリシの剣を両腕で抱えた。
 何事もなかったかのようにハーデスが続ける。
「さらに、奴らにはもう余力が残っていない。それは俺たちも同じだ。研究所が決着の場所になるだろう。もっとも、このまま真正面からぶつかれば、まず俺たちが勝つ」
 それはいいことのように聞こえるが、話の調子からすると反対の意味を指しているようだった。自分たちの方が有利ということが、結果的に不利になる……よく分からない。
「奴らもそれは分かっている。だから、何か対抗策を取るだろう。だが、この短時間でまともな戦力は用意できない。チェイサーは間違いなく《銀色の杖》に手を出す」
 視線を前に固定したまま、ハーデスが断言する。
 消防車が二車線道路に飛び出した。今度は、左に曲がる。ティルカフィは目を瞑り、振り回されないようにきつくシートベルトを掴んだ。
「おあッ!」
 タイヤが道路に擦れる、引きつったような音が響く。後ろの席でガツと音がした。陽炎が扉にぶつかったのだろう。だが、振り向いて確認することはできなかった。
 ハーデスだけは何も変わらない。表情も目付きも口調も何もかも。
「そうなれば、俺が最も恐れていたことが起こる」
「恐れていたこと……?」
 振り回されないように助手席の背もたれにしがみついたまま、ルーが訊く。
 夜とはいえ、道路に何台も車が走っていた。どの車もこの消防車よりも遅い。だが、ハーデスは車線に構わず、車の間を縫うように消防車を操る。その運転技術は超一流のものだ。周りの明かりがとんでもない速さで後ろに飛んでいく。
「暴走だ」
 ルーの問いへの答え。車体の周囲で空気が渦巻き、唸りを上げているが、ハーデスの声ははっきりと聞き取ることができた。剃刀のような声が、唸る風音を切り裂く。
「暴走? お前が一番暴走してるだろうが!」
 陽炎が吼えた。
 目の前にある十字路の信号は赤だが、消防車は止まらない。緊急車両なのでそれは当然なのだが、速度を緩めることすらしなかった。運転席の扉が、十字路を通り遅れた一台の車の後部を擦る。火花が散り、車体が揺れた。
 ハーデスは車の後ろを一瞥してから、陽炎に冷たい声で告げる。
「下らない冗談なんか言うな。暴走するのはキリシだ」
「し、キリシさんが? どうしてですか?」
 思わずティルカフィは問いかけた。どう考えても、キリシと暴走という単語はつながらない。陽炎やルーも同意見だろう。
 ハーデスは相変わらずの声で答えた。
「キリシは《銀色の杖》の発動者。研究所には回収された《銀色の杖》がある。キリシの側には冷静な判断力を失いかけたチェイサーがいるんだ――」
 躊躇したような間ができる。
「発動者、《銀色の杖》、引き金……全てが揃っている」
 その声には少なからぬ焦りが含まれていた。今までの淡々とした口調とは明らかに違うものである。それほど大変なことなのだろう。
 ハーデスは懐からペイルストームを取り出した。
「時間がない! 市の中央を突っ切るぞ!」

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