Index Top 不条理な三日間

第1節 妖精ティルカフィ


 深めの器に、野菜のスープをよそる。
 学生寮の二階にあるキリシの自室。学生寮というだけあって、さほど広くはない。寝室と台所が一緒になったような部屋に、風呂とトイレがついている。きれいに掃除された室内には、ベッドとたんす、勉強用の机、本棚、組み立て式のテーブルなど、必要最低限の物だけが置かれていた。
 テーブルに着いたティルカフィの前に、キリシはパンとスープを置いた。じっとその料理を見つめているティルカフィに、言っておく。
「急いで食べると胃が受けつけないから、ゆっくり食べろよ」
「はい」
 ティルカフィは嬉しそうに返事をした。言われた通り、ゆっくりと食べ始める。
(ティルカフィ・アウトラリア……)
 心の中で呟きながら、キリシは改めてその姿を眺めた。
 見た目の年齢は十五、六歳くらいだろう。長い薄緑色の髪、細長く尖った耳、澄んだ青色の瞳におっとりした顔立ち。飾り気のない薄紫色の服を身にまとっている。さっきは、この上に白いマントを羽織っていた。
「なぁ、キリシぉ。オレにも何か食わせろ――。腹減った」
 不服そうな声は、ガルガスである。勉強机の椅子に逆向きに座って、恨めしげな視線を投げかけてきていた。当たり前だが、ガルガスの料理は作っていない。
 キリシはそれを半眼で受け止める。
「何で僕がお前に食事を作らなきゃならないんだ。フライパンでもかじってろ」
 冷たく告げてから、さっさとティルカフィに目を戻した。馬鹿にかまって時間を消費している場合ではない。
 今度は穏やかに声をかける。
「なあ、ティルカフィ」
「何ですか?」
 食事の手を休め、ティルカフィは顔を向けてきた。一見するだけでは、どこにでもあるような顔である。しかし、これと同じ顔は世界中を探しても見つからないだろう。
 キリシは人差し指で眉をこすり、
「単刀直入に訊くけど。君、人間じゃないよな?」
「はい。そうですけど……」
 スープをすくいながら、ティルカフィは頷いた。ただし、いまひとつ声に自信はない。完全に肯定しているわけではないようである。何かあるらしい。
 それから、眉を下げて、
「わたし、変ですか?」
「………」
 それは、非常に返答に悩む問いだった。人間じゃないと変なのか。人間じゃない上にこれ以上ない変な奴と日常を過ごしている人間には、どうにも答えが出ない。
 キリシは適当にガルガスを指差して、
「とりあえず、銃弾何発も食らって平気な奴よりはまともだから、安心していいと――」
 思うぞ。と言いかけて、口を閉じる。
 ガルガスがいない。
「あれ?」
 猛烈に嫌な予感を覚えながら、視線を移動させると――ガルガスは台所に立って、フライパンを手に取っていた。口を開けて……
「待てィ!」
 即座に駆け寄り、フライパンを奪い返す。失言だった。相手はあのガルガスなのだ。かじってろ、などと迂闊なことを言えば、それがフライパンだろうと本気でかじる。
 キリシは空いた右手でスープの入った鍋を示した。
「分かった。それ食べていいから……」
「おう。ありがとう」
 表情を輝かせるガルガスに、キリシは釘を刺す。
「それと、言っていおくが、僕の分も残しておけよ」
「むぐ?」
 ガルガスは首を傾げた。
 両手でしっかりと掴まれた鍋は、既に空になっている。口いっぱいに頬張ったスープを一息に飲み込んでから、ガルガスは満足げな息を吐き出した。
「あー」
 キリシはこめかみに指を当ててから。
 左手のフライパンを握り直す。キリシは息を吸い込んだ。意識が張り詰め、全身の筋肉に力が入る。重く頑丈な鉄製のフライパンを、頭上に振り上げ――
 渾身の十三連打が炸裂した。
「あうぅぅ………」
 したたかぶっ叩かれた顔面を押さえ、うずくまるガルガス。キリシはフライパンを元の場所に戻してから、ティルカフィの元へと戻った。料理は半分ほどに減っている。
 気を取り直して、キリシはテーブルの向かい側の椅子に腰を下ろした。
「話を戻そう。人間じゃないないなら、君は何なんだ?」
「わたしは……妖精です」
 ためらい気味に、ティルカフィが答える。
「妖精……?」
 と聞いて思い浮かんだのは、子供の頃に呼んだ童話の絵本だった。背中に羽の生えた小妖精である。目の前のティルカフィとは全く似てないが。
 ティルカフィは薄緑色の髪を撫でながら、
「ええと……。人間を異なる生命体に変化させる、という実験で……。人間に特殊な要素を移植するとか……。それで、そうすると……元々の能力の一部を飛躍的に上昇させ、人間にはない特別な技能が扱えるようになって……。そのひとつが、妖精です」
 たどたどしい口調で説明する。体力と気力がないせいで、一息に話すことができないのだろう。だが、自分でもよく分かっていないようでもある。
 ともあれ、キリシは目を閉じた。ティルカフィの言ったことを頭の中で何度も繰り返す。重要そうな部分を拾い出して整理してから、目を開けた。
「つまり、君は元々人間だった。そして、何かの実験を受けて、今の妖精とやらになった。結果、僕の傷を治したような力を使えるようになった。と?」
「そうです」
 嬉しそうに、ティルカフィが首を縦に振る。
 その姿を眺めながら、キリシは心中で独りごちる。
(信じられるような話じゃないけど……)
 目の前にいるティルカフィとその力を見れば、信じないわけにもいかないだろう。
 キリシは自分の左腕を見下ろした。銃弾がかすった傷。だが、今となっては、痕跡さえ残っていない。切れて血で汚れた服も、別のものに着替えてある。色も形も前のものと変わっていないが。
 ティルカフィに目を戻して――
「んで、こいつのケガを治したアレ、何なんだ?」
 キリシの頭を横に押しのけ、ガルガスがいきなり会話に割り込んでくる。フライパンによる連続攻撃の効果が切れたらしい。
 ティルカフィはキリシとガルガスを交互に見やった。
「あれは、魔術です」

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