Index Top 不条理な三日間

第3節 平穏が終わった時


 薄布のような影が差す道を、キリシは一人で歩いていた。
 右手には、夕食の材料などが入った買い物袋を持っている。土曜日の午後は、学校の近くにある商店街に出かけて買い物をするのが、習慣だった。これから学校の寮に戻って夕食の準備である。
「そういえば……」
 キリシは懐から一枚の写真を取り出した。
 商店街から学校までの近道。裏路地とでも言うのだろう。さして広くもない道の両側には二、三階建ての建物が並んでいる。夕方ということもあり、人の姿は全く見られない。視界の端に猫が一匹いるだけだ。
「もう一年以上も会ってないんだよな……」
 写真には自分と一緒に、一人の女の子が写っている。年は十歳くらい。着ている服は自分と同じものだが、色の組み合わせは黄色と橙色だった。長い栗色の髪を背中に流して、愛嬌のある笑顔を見せている。
 妹のコース・シャロルである。妹といっても、血は繋がってはいなかった。だが、それを気にしたことはない。仲のよい兄妹として近所でも有名だった。
「このカシアク市にやって来たのが去年の春……。父さんも、進学なんてわがままよく聞いてくれたよな――」
 思い出して口元を緩める。
 故郷のササス村にある学校を卒業してから、キリシはカシアク第三高等学校に編入したのだ。それ以来、故郷には帰っていない。夏休みや冬休みなどの長い休みはあったのだが、その間は学費や生活費などを稼ぐためにアルバイトをしていたのである。
 おそらく、卒業するまでは帰れないだろう。
「あ……」
 写真を懐にしまい、キリシは指で眉をこする。
 うっかり不要なことまで思い出してしまった。
「あの厄病神に会ったのも、ここに来た時だったよな……」
 眉間を指で押さえ、うんざりと呻く。
 それは編入の手続きを終えて、校長先生に挨拶をした時だった。



「失礼しました」
 一礼してから、キリシは校長室の扉を閉めた。
 中で話したのは、この学校に編入した理由や卒業した学校の勉強の進み具合、故郷の家族や友人のことなど、ごくありきたりなことである。しかし、校長先生と一対一で話すというのは、精神的に疲れる。
 その疲れを吐き出すように息をつき、キリシは歩き出そうとして。
「よぉ」
 軽い声をかけられる。
 視線を動かすと、校長室の向かいの壁に一人の青年が寄りかかっていた。大人びいているようで、どこか子供っぽい雰囲気。全身黒ずくめで、さらに丈長の黒いコートまで着ている。いつの間にそこにいたかは分からない。それが、気安く右手を上げていた。
(変な格好……)
 それが第一印象である。
 面白い物を見つけた子供のような笑みを浮かべながら、青年は近づいてきた。
「お前か? 何か、この学校に編入してきたって奴は」
 興味津々といった口調で、そんなことを言ってくる。見たところ、特に悪い奴ではなさそうだが、キリシは漠然とした不安を覚えていた。
「そうだけど……」
 答えて、歩き出す。
 青年はその隣を歩きながら、
「んで、名前は?」
「僕はキリシ――。コース・キリシだ。君は?」
 短く自己紹介をして、訊き返すと。
 青年は自慢げに笑って、親指で自分を示した。
「オレはガルガス・ディ・ヴァイオン。この学校で一番有名な生徒だ」
「有名?」
 意味が分からず繰り返す。当たり前だが、キリシはこの学校の生徒のことはまだ何も知らないのだ。一番有名な生徒と言われても、何が有名なのか分からない。
「安心しろ。すぐに分かる」
 続けた言葉は、さらに意味が分からなかった。
 ともあれ、右へと曲がる。そこには、一階へ続く階段があった。
 さりげなく、ガルガスが注意してくる。
「あ。そこの床、濡れてて滑りやすくなってるから、気をつけろよ」
「へ?」
 と呟く。が、忠告は遅かった。
 その時には既に、キリシは濡れた床で思い切り足を滑らせている。
 視界が斜めに傾いた。時間の流れが異様に緩慢になっていく。断末魔とはこんな感じなのだろう、と場違いなことを考える傍ら、本能が告げていた。何とかしろ、と。
 前のめりに倒れそうになりながら、強引に身体をひねる。考えるよりも早く伸ばした右腕が何かを掴んだ。それが何かを確認する余裕はない。
 その何かにしがみつくように、キリシは体勢を立て直す。
 しかし……
「へ?」
 気づいた時はもう遅かった。
 掴んだのは、ガルガスの右腕である。
 緩慢な時間の流れは変わらない。キリシは目の前で起こる出来事をただ眺めることしかできなかった。今度は指一本動かない。動かせない。
 自分が体勢を立て直した代わりに、ガルガスが前のめりに倒れていく。階段に激突し、その身体が弾んだ。そのまま一回と半分転がってから、再び弾んで。
 最後に――顔面から踊り場の床に激突する。
 そこで、ようやく時間の流れが元に戻った。
 壊れた人形のような格好で、ガルガスはうつ伏せに倒れている。
「…………」
 頭の中を真っ白にしながら、キリシは足音もなく階段を下りていった。どう控えめに見ても、無事とは思えない。左手を伸ばし、恐々と呼びかけてみる。
「おい……。大丈夫か……?」
 刹那――
 がば! と勢いよくガルガスが跳ね起きた。
「いきなり何しやがる。びっくりしただろうが!」
 あまつさえ、叫びながら掴みかかってくる。
「おあっ」
 その手から逃げるように、キリシは跳びび退いた。
 目の前にある現実が信じられない。両手で目をこすり、目の前で怒った動物のように唸っているガルガスを見つめる。
「びっくりした、って……」
 自分がさらに思考停止状態に陥っていくことは自覚できたが……。
 必死に状況を整理する。ガルガスは自分の目の前で階段を転げ落ちた。これは事実だ。しかも、十二段。常識的に考えて、無事であるはずがない。しかし、目の前で元気に怒っている。信じられないが、これも、事実だ。
 キリシは擦れ声で問いかけた。
「ええと……。怪我は、ないか……?」
「ケガぁ?」
 ガルガスはそれを未知の単語のように呟き。
 腰に手を当てて、あっけらかんと笑った。
「はっはっは。たかが階段を十二段転げ落ちた程度で、このオレがケガなんかするかよ」
 無茶苦茶なことを、当然とばかりに言ってくる。
 しかし、言っていることは本当だった。ガルガスの身体には、どこにも怪我は見られない。それどころか、ぶつけた痕すらない。全くの無傷である。
「いや……。階段を転げ落ちれば、誰でも怪我のひとつはすると思うけど……。打ち所が悪ければ、死んでるだろうし………」
 念のため、常識的な意見を口にすると、
「うーん。そうかぁ?」
 呻きながら、ガルガスは悩むように視線を上げた。その動作にふざけているような気配はない。キリシの言葉を本気で疑問に思っているようである。
 その姿を見ながら、
(こいつ、人間じゃないかも……)
 キリシは真剣にそんなことを考えた。

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