Index Top 不条理な三日間

第2節 歩く傍迷惑


 淡い絶望を感じながら、キリシは声のした方に目を向けた。
 図書室の左には階段がある。四階へと続く階段の踊り場に、一人の青年が立っていた。両手にボクシング用のグローブをはめている。どうやらボクシング部員らしいが、なぜか妙に殺気立っていた。
 キリシが眺めているうちに、上の階からぞろぞろと新たなボクシング部員が降りてくる。その数、十数人。全員が全員、怒りに満ちた眼差しでガルガスを睨んでいた。
「覚悟しろ! ガァルガァァァス!」
 予想通りのことを叫び、一斉に階段を駆け下りてくる。
「―――!」
 声にならない声を上げて、キリシは逃げ出した。なぜか一緒にガルガスも走り出す。その後を様々な罵声を上げながら、部員たちが追いかけてきた。
 廊下を歩いている生徒は、壁に張りついたり近くの教室に逃げ込んだりと、緊急避難をしている。この一団を見れば、誰でもそうするだろう。懸命な判断だ。
 全速力で走りながら、キリシは隣を走るガルガスに顔を向けた。
「お前ぇえぇッ! 今度は、一体何をしたッ!」
 怒鳴り声の質問を叩きつける。
 ガルガスはなぜか照れたように後ろ頭をかいてみせた。
「いやぁ、実は――。つい昼過ぎ、ボクシング部の部長とケンカをしてだな」
 走りながらも息ひとつ乱さず、世間話よろしく言ってくる。
 ガルガスがけんかをするのは別段珍しいことではない。一週間に一度はどこかで誰かと殴り合いをやっている。けんかそのものを楽しんでいるらしい。迷惑なことに、キリシも何度となく巻き込まれていた。
 涼しげな口調で、続ける。
「殴り倒してしまった」
「おい!」
 キリシは声を引きつらせた。ボクシングの部長はカシアク市の大会で優勝したほどの実力の持ち主である。端的に言えば、強い。いくらけんか好きでも素人が容易く勝てる相手ではない――が、この人間外なら苦もなく倒してしまうだろう。現に倒している。
 ガルガスは追いかけてくる部員たちを親指で示し、
「そしたら、それを見ていた他の部員たちが『部長のかたきだー!』とか言いながら追いかけてきているんだが。さて、どーしたものか?」
 と他人事のように首を傾げている。
 まあ、ボクシング――乱暴に言うと殴り合いで校内最強を誇る部長が、素人にあっさり殴り倒される姿を見てしまっては、平静ではいられないかもしれない。
 だが、重要なことがひとつ。
「それを! 僕に! どうしろって! いうんだ!」
 呼吸の合間に、キリシは声を吐き出す。
 ガルガスはキリシに目をやり、
「何とかならんか?」
「なる、か……!」
 キリシは叫び返した。
 そうしているうちに、息が苦しくなってくる。全力で走りながら、怒鳴ったり叫んだりしていれば、当然息も乱れてくる。息が乱れれば、当然走る速度も落ちてくる。走る速度が落ちれば、当然――
「う……」
 冷や汗を流しながら、キリシは廊下の壁に背中を貼りつかせた。その周りを十数人のボクシング部員が取り囲む。殺気のこもった視線が痛い。
「さあ、覚悟しろ……」
 体格のよい黒髪の青年が、拳を構えながら険悪に呻いた。怒りのためか、額に血管が浮かんでいる。名前は忘れたが、ボクシングの副部長だ。
「僕は、関係な――」
 呟くものの、誰も聞いていない。
「問答無用ぉぉぉッ!」
 副部長を筆頭に、ボクシング部員が一斉に襲いかかってくる。
「だあああ!」
 半ばやけ気味に、キリシは肩の鞄を副部長に投げつけた。それで副部長の動きは止まったが、別の誰かに顔面を殴られる。痛みを感じる間もなく、今度は脇腹に拳が打ち込まれた。息を詰まらせながらも、目の前にいた金髪の青年の顔面に左拳を叩きつける。さらに、横からの一撃を上段蹴りで迎撃した。
 こうして、なし崩しに乱闘が始まり――
「って、ちょっと待てええええええ!」
 キリシは全力で声を張り上げた。交差した両腕で、副部長の拳を受け止める。
 副部長は一歩後ろに飛び退き、威嚇するように拳を空打ちした。
「何だ? 今さら命乞いか?」
 キリシは左腕を振って、訴える。
「違うだろ? 何で僕が君たちと殴り合いをしてるんだよ! 君たちが追いかけているのは、あの歩くはた迷惑だろ!」
「………………そういえば……そうだな」
 長い沈黙を置いて、副部長はぽんと拳を打った。今まで頭に血が上っていて気づいていなかったらしい。左右を見回しながら、呟く。
「奴はどこ行った?」
 辺りにガルガスの姿はない。
「逃げた……」
 キリシはその場にへたり込んだ。あちこち打たれた身体が、今になって痛み始める。
 そんなキリシには目もくれず、
「そう遠くには行ってないはずだ! 探すぞ!」
「おう!」
 副部長の掛け声に、部員が散らばっていく。
 やがて、野次馬もいなくなり――
 てくてくと近づいてくる足音。
 視線を転じると、飄々とした足取りでガルガスが歩いてきていた。今まで一体どこに隠れていたのかは分からない。キリシの傍らまで来ると、その肩にそっと手を置いて、
「災難だったな、キリシ――っ!」
 無言で放ったキリシの拳が、ガルガスのあごを打ち上げる。
(対処法その四。どうせ最後は巻き込まれるんだから、諦めが肝心……か)
 伸び上がるようにひっくり返るガルガスを眺めながら、心の中で呟いておく。

 どこの学校にも有名な生徒というのが一人や二人はいる。
 カシアク市立カシアク第三高等学校。人口約九十万人の中規模都市カシアク市の北東に位置する四年制の学校である。生徒数は千二百人ほど。これといって目を引くような特色はなく、ごく標準的な学校と言えるだろう。
 しかし、先の例に漏れず、この学校にも非常に有名な生徒が二人いた。
 ガルガス・ディ・ヴァイオン。学校で最も多くの厄介事を起こす迷惑な生徒。
 コース・キリシ。その厄介事にことごとく巻き込まれる、不運な生徒。

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