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第1節 日常的非日常 |
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どこの学校にも有名な生徒というのが一人や二人はいる。 カシアク市立カシアク第三高等学校。人口約九十万人の中規模都市カシアク市の北東に位置する四年制の学校である。生徒数は千二百人ほど。これといって目を引くような特色はなく、ごく標準的な学校と言えるだろう。 しかし、先の例に漏れず、この学校にも非常に有名な生徒が二人いた。 (対処法その一。なるべく関わらない) 心中でそんなことを呟きつつ、キリシは左手に持った鉛筆をノートに走らせていた。 コース・キリシ。四年六組の生徒である。年は十七歳。人の好さそうな顔立ちに茶色の瞳、薄い茶色の髪を肩まで伸ばしている。着ているものは、普通の服ではなかった。青と緑の布を数枚重ねたような独特の形をした半袖の上着と、地味な白いズボン。これらは、遥か西のケレン山地に住むコウ族の伝統的民族衣装クシームである。 もっとも、キリシのような地方出身者は一クラスに二、三人はいるので、民族衣装というのもそれほど珍しくはない。 「ん?」 キリシは鉛筆を止めた。 それに合わせるかのように―― 「何やってんだ、キリシ?」 背後から聞き慣れた……正確には聞き慣れてしまった声がする。 キリシが座っているのは、校舎三階にある図書室の一番奥の席だった。ここからは、図書室全体が見渡せる。誰かが近づいてくれば、必ず気づくはずだ。キリシに姿を見られずに背後から声をかける方法はない。背後の窓から以外は……。 何を思うでもなく、キリシは人差し指で眉をこすった。振り向かずに、答える。 「見て分かるだろ。数学の宿題だよ」 キリシの前には数学の教科書とノートが広げられていた。練習問題の十八番。一昨日から始まった積分の応用問題である。応用問題だけに結構難しい。 「土曜日の午後から宿題とは、立派だなー」 声の主は感心したように呟いた。ついでに、うんうんと頷く気配も伝わってくる。 キリシは再び鉛筆を動かし始めた。残りは二問。もう少しで終わるだろう。 「僕は、面倒なことはできるだけ早く片付けることにしている。後々まで放っておくと、 何だかんだでできなくなるからな」 ノートに答えを書き込みながら、キリシは告げた。ただし、この言葉は、宿題を先延ばしすると、提出日前に苦しむという意味ではない。 最後の問題に取りかかりながら、 「それより、お前は宿題やらなくていいのか? 連休前だからひとつは出てるだろ」 あくまで後ろを振り返らぬまま、訊いてみる。明日は日曜日、その次は学校の創立記念日で休みである。こういう時は宿題が多めに出るのだ。が…… 「はっはっは。このオレが宿題なんてやるわけないだろ」 声の主は朗らかに笑う。言っていることに何の疑問も感じていないらしい。 「僕は関係ないけど……」 無関心に呟き、キリシは最後の問題の答えを書き込んだ。 一息ついてから、教科書とノートを重ね、鉛筆を筆箱にしまう。それから、近くに置いてあった分厚い百科事典を手に取った。これは、数学の宿題に何の関係もないが。 瞑想するように目を閉じ、百科事典を持つ両手に力を込める。 「ひとつ訊いていいか?」 「いいぞ」 という軽い返事。 「お前――僕に何の用だ?」 問いかけてから、キリシは息を吸った。次の行動のために全身に力を込める。 声の主はやや含みのある声音で、 「親友として、お前に頼みがある」 「断る!」 内容も聞かず、キリシは即座に拒否した。 (対処法その二。追い払う時は、実力行使!) 声を出さず叫びながら、全力で身体を回転させる。足元から始まり、足から腰、腰から肩、肩から腕へと続く力の流れ。それに回転の遠心力を加えて、両手で掴んだ百科事典を声の主へと叩きつけた。 ゴシ! 「おぐ!」 生々しい音とくぐもった声。反動が、手首から肘、肩へと跳ね返ってくる。その感触を確かめつつ、待つことしばし―― といっても、実際は一秒ほどだっただろう。 ドサッ。 砂袋を地面に落としたような、重い音が聞こえた。 目を開ける……。 開け放たれた窓。 百科事典を机に置き、キリシは窓の下に目を向けた。 十メートルほど下にある植え込みの中で、見慣れた黒い塊が大の字になってぴくぴくと痙攣している。ひとまず危機は去った。 (これは、あとで栽培委員会に怒られるな……) そんなことを思いながら窓を閉め、しっかりと鍵をかける。 教科書とノート、筆箱を鞄に入れ、キリシは鞄を肩にかけた。百科事典を元の場所に戻してから、早足で図書室の入り口へ向かう。 「あとは、逃げるだけ」 独りごちながら、キリシは入り口の扉を開けた。 「よお、遅かったな」 そんな言葉が待っている。 「ガルガス……」 顔をしかめて、キリシは目の前に佇む青年を見つめた。 年は自分と同じくらい。手入れのされていない長い黒髪、野生動物を思わせる鋭利な黒い瞳に、牙のような犬歯が覗く口元、黒い上着と黒いズボン。さらに、その上に丈長の黒いコートまでまとっている――ちなみに今は初夏だ。どう見ても異様な格好ではあるが、その風体に一片の違和感を覚えないのも事実だった。 ガルガス・ディ・ヴァイオン。キリシの同級生である。 ついでに……自称、キリシの無二の親友。 山と浮かんでくる疑問の中で、キリシは最も簡単なものを口にした。 「お前、何でここにいる?」 「……どういう意味だ?」 ガルガスがきょとんと訊き返してくる。 混乱する頭を静めつつ、キリシは言い直した。言い聞かせるように。 「図書室の真下からここまで、どう走っても一分以上かかる。それなのに、何でお前は平然とここにいる? いくらお前が人間じゃなくとも、納得できないぞ……」 それを聞いて、ガルガスはむっとしたように眉を斜めにした。何か癇に障る言葉でもあったようである。不満そうに腰に手を当てると、 「人間じゃなくとも――って、オレのどこが人間じゃないんだよ」 「三階から落下して平然としている時点で、既に人間じゃない!」 相手の鼻先に指を突きつけ、キリシは言い返した。普通の人間ならば、三階から落下して無事では済まない。しかし、ガルガスは全くの無傷。人間ではないのだ。 「まったく……」 息を整えながら、キリシは気づく。廊下の窓が開いていることを。 「って、まさか」 こめかみの辺りに力を入れながら、キリシは開いた窓を指差した。それは、まともな人間には到底できないな芸当だが、こいつなら平然とやりかねない。 「そこから登ってきたのか?」 「そうだが」 コートの襟を引っ張り、こともなげに答えてくれる。 足掛りのない壁をどうやって登ってきたのか気になったが、キリシはあえて深くは考えないことにした。考えても意味がない。無駄に脳を使うだけである。 (対処法その三。こいつに常識を当てはめない……) 自分に言い聞かせてから、次の問いを発する。 「お前、さっき僕に頼みごとがある――とか言ってたが。頼みごとって何だ?」 言いつつも、キリシはその頼みごとを聞くつもりなど毛頭なかった。だが、聞いておかないのも不安である。後でどんな余波を被るか分からない。 「実はな――」 ガルガスが言いかけた、その時。 「いたぞ!」 そんな声が聞こえてくる。 |