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第1節 真冬のある日 |
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ササス村の北に小さな教会が佇んでいる。 「だいぶ積もったな……」 カーテンの隙間から外を眺めながら、コース・エイドは呟いた。 二十代半ばの温厚そうな若者。この教会の新しい教士である。身にまとっているのは、丈の長い黒の聖衣だった。教士になって間もないので、まだ着慣れてはいない。 エイドが眺める窓の外には、きれいな夜の雪景色が広がっている。漆黒の闇と純白の雪、所々に見える窓の明かり。それらが重なり合って、幻想的ともいえる風景を作り出していた。それは一枚の美しい絵画のようでもある。いくら見ていても飽きるこはない。 そこで、エイドは空想を止めた。 「寒い……」 飽きることのない風景といえ、眺めていれば自然と身体が冷えてくる。 カーテンを閉めて、エイドはそそくさと自分の机に戻った。つい先週買い換えた新しい机である。近くでは、電気ストーブが暖かい空気を吐き出していた。しかし、部屋の中はそこはかとなく寒い。 すっかり冷えてしまった椅子に座り、机においてある算数の教科書を広げる。 「さて、明日の授業は――」 エイドは教会の教士をする傍らで、村の小学校の先生も勤めているのだ。正しくは、小学校の先生が教士になったのである。温厚な性格と丁寧で分かりやすい教え方から、子供たちからも慕われていた。 明日の授業の予定をノートに書き込んでいると、 バンバンバン! 突然、そんな音が鼓膜を叩く。 「何だ?」 エイドは鉛筆の動きを止め、椅子から立ち上がった。 それは木の板を叩いているような音である。 「泥棒……」 かと思ったが、おそらく違う。この教会には捕まる危険を冒してまで盗むようなものはない。第一、泥棒がこのような目立つ音を立てるはずがないのだ。 不可解な思いを抱えながら、廊下に出る。音は教会の裏手の方から聞こえてきていた。誰かが裏口の扉を叩いているようである。 エイドは気を引きしめ、裏口へと向かった。 その間も音は聞こえていたが、次第に弱くなっていく。 裏口に着くと、予想通り誰かが外から扉を叩いているようだった。古い木の扉が揺れている。だが、それは弱々しく、始めの強さはない。 「誰ですか――?」 少なからず怯えながら、エイドは扉を開けた。 吹き込んでくる冷たい空気に、身震いする。 そこに、一人の男が佇んでいた。 一度瞬きをして、エイドはその男を見つめる。 年は四十代半ばだろう。人の好さそうなその顔には、追い詰められたような表情が浮かんでいた。ぼさぼさに乱れた薄茶色の髪と汚れた服、白い布に包まれた何かを左手でしっかりと抱えている。 「あなたは……?」 その風貌に、エイドは疑問の声を発した。見た限り、泥棒ではないようだが。 男は何も答えない。エイドの声が聞こえていないようでもある。半ば倒れこむようにエイドに近づくと、男は左手で抱えていた何かを差し出してきた。 「この子を、頼む……」 「―――!」 呼吸が止まる。男が渡してきたのは、布に包まれた赤ん坊だった。まだ一歳にもなっていないだろう。目を閉じたまま、寝息を立てている。 エイドが赤ん坊を受け取ると、男はいきなりその場に倒れた。 「大丈夫ですか?」 慌てて声をかける。 だが、男は力なく立ち上がりながら、 「僕のことは……もう、どうでもいい……。それよりも、その子を頼む……」 「はい」 エイドは即答した。何であろうと、赤ん坊を放っておくわけにはいかない。 赤ん坊を抱えたまま、エイドは改めて男を見やった。その顔は蒼白で、身体は小刻みに震えている。呼吸も乱れていて、尋常な様子ではない。 「それより、あなたこそ――」 エイドの言葉は最後まで続かなかった。 恐ろしく強い輝きを帯びた男の瞳に射すくめられたからだ。 「本当にすまないと思っている。見ず知らずのあなたを巻き込んでしまって……。だが、僕には時間がない……。手前勝手な頼みだが、その子を頼む――!」 その声には、戦慄さえ覚えるほどの強固な意志が込められていた。 一度深く息を吸い込んでから、エイドは男の目を見据える。 「――分かりました。安心して下さい。神に誓って、この子は僕が立派に育ててみせます。困っている人を救うのが僕の仕事ですから」 それを聞いて、安心したように男の表情が緩んだ。懐に手を入れて、厚い紙の束を取り出す。五万リギー紙幣の札束。それは、五百万はあるだろう。 「これは、僕の全財産だ……。もはや、僕には必要のないもの……。あなたに預ける……。この子を育てるのに使ってくれ……」 「はい」 エイドは差し出されたお金を受け取り、丁寧に懐に収める。十年分の生活費に匹敵する金額を躊躇なく渡すということは、よほどのことがあるのだろう。 「僕は……もう行く……。ここに長居するわけにはいかない……」 男は踵を返し立ち去ろうとした。 が―― 思い出したように足を止め、振り返ってくる。 「言い忘れていた……。僕の名前は、レゼルド……。レゼルド・オーン・シルバースターだ……。その子が成長したら、僕のことを伝えてほしい……」 「分かりました」 「ありがとう……」 寂しげに微笑みながら、今度こそレゼルドは雪の中に消えていった。 エイドは扉を閉め、腕の中の赤ん坊を見つめる。 赤ん坊は何事もなかったかのように寝息を立てていた。 レゼルドとこの赤ん坊にどんな事情があるのかが全く分からないが、この赤ん坊がエイドには想像もつかないようなことに巻き込まれていることだけは分かる。 「この子に神の御加護があらんことを――」 左手で聖印を切り、エイドは祈った。 |