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前編 後遺症?


「平穏って素晴らしい……」
 机に向かったまま、カイムは本を眺めていた。窓からは夕暮れの空が見える。
 ここしばらく論文制作に追われていたが、今日の午後に無事提出することができた。今は、久しぶりの落ち着いた時間を堪能している。一時間ほど風呂とサウナで身体を休めてから、果実酒を呑みつつ読書の時間。
「これでしばらくはゆっくり出来るね、マスター」
 嬉しそうに笑う妖精のミィ。赤い髪と赤い瞳、緑の帽子と緑色の服という格好。
 積んである本に腰掛け、足を動かしている。
 ここ数日、ミィに構っている時間もなかった。こうしてのんびりと会話するのも、えらく久しぶりに思える。
「そうだな。明後日当り、どこか出かけるかい? といっても妖精連れて街に出かけるわけにもいかないし、近くの人のいない場所にでも」
「月見山行こう」
 学院近くにある小高い丘。もしくは小さい山。標高二百メートルほどの山。正式な名前があるが、みな月見山と呼んでいるため、正式名称は忘れられている。
「弁当持って出かけてみるか。誰か誘ってみる?」
「みんな、論文で忙しいよ。マスターは一番早く終ったけど、他の人は大変そう」
「だよねぇ」
 この時期は論文の提出期限が重なるため、皆忙しい。論文をすらすら書ける人間は、カイムを含めて十人にも満たないのだ。
 カイムはふっと短く息を吐き、
「なら、たまには二人で出かけよう」
「うん」
 嬉しそうに頷くミィ。
 カイムは読んでいた本に目を戻した。
「ねぇ、マスター」
 ミィが声を上げる。今までの無邪気な声とは少し違った、どこか甘えるような声。ミィがこのような声を出すのは珍しかった。
「一ヶ月前のこと覚えてる?」
 訊かれて、記憶を辿る。色々あったため、よく覚えていない。論文制作のために、小型の飛行機を飛ばす実験を行っていたような記憶があった。
 だが、ミィの言いたいことではないだろう。
「何かあったっけ?」
「ほら、わたしが蜂蜜みたいな薬舐めちゃって」
「あー。そんなこともあったなぁ」
 頭を押さえて、呻く。思い出した。
 催淫効果の副作用のある薬を蜂蜜と間違えて舐めてしまい、大変なことになった。あの時は平静を装っていたが、あれからしばらく凹んだと記憶している。
「そのことで相談なんだけど」
 もじもじと両手を動かしながら、ミィ。
 なんとなく嫌な予感を覚える。
「一昨日、蜂蜜バター塗ったパン食べたでしょ?」
「食べたね、確かに」
 カイムはこめかみを指で掻いた。
「それで、一ヶ月前のことがフラッシュバックして、また妙な気分になってしまった――とか言うんじゃないだろうね?」
「うん……」
 顔を真っ赤にして頷くミィ。
 カイムはため息をついく。催淫状態になっていた時の記憶が、蜂蜜を口に入れたということを引き金に蘇り、再び発情してしまった。
「なるほど」
「だから、マスター。お願い……」
 頭から湯気を出しそうな勢いで、ミィが頼んでくる。本人は深刻なのだろうが、端から見ているとどうにも滑稽でしかない。
 カイムは特に慌てもせずに、ミィの肩に指を置いた。
「念のため聞いておくけど、自分で慰めるってできない?」
「無理だよ」
 首を振る。
「我慢するとか?」
「それも無理みたい……、何か身体が熱いし、もう我慢できないかも……」
 カイムの手を掴み、ミィは呟いた。
 ふと自分は何でこんなことになっているのかと考える。自分が薬を冷蔵庫に放り込んだまま忘れていたせいだろう。ある意味では自業自得とも言える。
「マスター?」
 ミィの声に思考を戻し。
 カイムは左手を伸ばして、がっしとミィの身体を掴んだ。優しく、だが逃げられないようにしっかりと。普段はミィの身体を掴むことはしない。
「え? えっと?」
「前も言ったけど……男にそういうこと頼むなら覚悟は決めろよ?」

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