Index Top 第7話 夏の思い出?

第13章 夏の夜


「うぅー……。あはは……」
 テーブルに突っ伏したリリルが、意識をどこへとなく飛ばしていた。何やら楽しそうに口元を緩めたまま、頬を赤くしている。へなへなと揺れている黒い尻尾。目は半分開いているのだが、心ここに在らずといった風体だった。
「……なぜ?」
 自問しながら、浩介はリリルの頬を指でつつく。普段なら嫌がるなり何なりの反応を見せるのだが、その反応もない。まるで酔い潰れたかのように。
「酒使った料理いくつか食ってはいたが、あの程度で酔っ払うものか……? 酒に弱いとは思っておったが、まさかここまで弱いとは」
 三本目の一升瓶を空にしてから、草眞は首を傾げていた。テーブルに並べられた皿はあらかた空になっている。その半分以上を草眞が食べてしまったのだ。
「にゃははー。リリルって本当にお酒に弱いんだねー」
 脳天気に凉子が笑っている。その顔は赤く染まって、一目で酔っているのが分かった。およそ一升瓶一本を飲んでいる計算になる。口調は一応まともであるが、目付きや身体の動きはかなり怪しい。
「凉子さんも大丈夫……?」
「だいじょーぶ! 私はもう二十歳越えてるから、法的にはいくらお酒飲んでも文句は言われないからね! 人間の法律が神に通用するかは知らないけど、神界の法律に飲酒規制はないし。全面的に大丈夫!」
 右手で胸を叩いて断言するが、大丈夫には見えない。思考は明後日に吹っ飛んでいるようだった。ゆらゆらと尻尾が左右に揺れている。
 呆れたように目を細め、草眞が静かに口を開いた。
「こいつはワシが家まで送っていく。元々風無の爺さんに用事があったのじゃからな。そのついでじゃ。明日行くと伝えておいたのじゃが……。どうやら今日はこやつの家に泊まることになりそうじゃな。ま、それもいいだろう」
 狐耳の縁を弄りながら、ため息をつく。凉子の家は名家で、かなり偉い所とも繋がりがあるらしい。草眞もその一人のようだった。
 両手をテーブルにつき、凉子が身を乗り出す。目を爛々と輝かせながら、
「草眞さん、ともに熱い夜を過ごしましょう!」
「ワシに同性愛の趣味はない」
 半眼で凉子を見返し、草眞は素っ気なく言い返した。
「私にはありますので問題ありません」
 凉子は右拳を握りしめ、きっぱりと断言する。断言するようなことではないが、自明の理とばかりに言ってのけた。酔いで理性のタガが完全に外れている。
「………」
 草眞の答えは沈黙だった。何と言えばいいのか分からないのかもしれない。
 ひょいと右手を持ち上げ、人差し指を凉子に向ける。
 その指が伸びた。
「ゥなっ!」
 悲鳴は一言。
 矢のような速度で伸びた人差し指が、凉子の顎を打ち抜いた。次の瞬間には指は元の長さに戻っている。文字通りの一瞬の早業だった。
 がくんと手加減無しに頭が揺れ、長い黒髪が跳ねる。凉子は一度身体を仰け反らせてから、崩れるように腰を落とし、テーブルに顔から突っ伏した。ぴんと立っていた尻尾が力なく垂れる。気絶したらしい。
 草眞が右手で額を押さえる。
「まったく、この娘は……。子供の頃は普通の性格だったんじゃが、知らぬうちの奇妙な方向に育ちおって……。この様子からすると、浩介も何かしらされたじゃろうが、他にお主を任せられる者もいなくての。すまんな」
 と、目を向けてきた。
「はぁ……」
 浩介は曖昧な返事をした。
 いきなり胸を掴まれたり、お尻を撫でられたりしたことは今まで何度もあった。風呂場で襲われたり、マタタビ酒で酔っ払って襲われたりしたこともある。セクハラというレベルではない。あまり思い出したくない思い出だ。
 草眞がそこまで予想していたのかは分からない。尋ねる勇気もなかった。
「一応……女としては最上級の身体に作ってあるからの。ついでに、元男が女の身体の手入れが出来るとは思えぬから、そこらも大丈夫なようにかなり手を加えてある。女としてはいびつな身体じゃが、そこは我慢せい」
 続けて言ってくる。
 浩介はふと目を移した。リリルがテーブルに突っ伏したまま、寝息を立てている。
 女として凄く上物――それはリリルの台詞だった。浩介は女としての身だしなみをやらずとも問題ない。化粧や無駄毛処理などもいらず、特に手入れもせずとも肌は綺麗で、生理なども来ない。その辺りの不自然さは自覚があった。
 話を逸らすように、浩介は気になっていたことを尋ねる。
「ところで、俺のオヤジは草眞さんに何したんですか?」
 今は亡き父であるが、おせじにも強い退魔師ではなかった。自分から一番下っ端、自分の代でこの仕事は終わりと笑っていた記憶がある。血も随分と薄まってしまい、浩介には最小限のことしか教えていなかった。いや、教えられなかったのだろう。
 そんな父親が、草眞に恩を貸せるとは思えない。
「ああ。啓太のことか。あやつには道を教えてもらっただけじゃ」
「それだけで?」
 思わず狐耳と尻尾が立つ。
 草眞は腕を緩く組んでから、首を左右に動かした。
「いや、啓太と会ってからしばらくして、神殿でちょっとした事件があっての。ワシも関係者の一人として事情聴取されたのじゃ。その時、啓太の証言でワシのアリバイが証明された。そのおかげで予定よりも一日早く開放された――」
 暗い窓を見つめる茶色い瞳に、音もなく鋭利な輝きが映る。表情などが緊張を帯びるのが分かった。冷房の効いたダイニングの空気が、不自然に冷たく変わる。
「その一日のおかげで、大事件を未然に防げた……。立場上詳しくは言えぬが、その恩義があったからの。それにお主が死んだのはワシの不手際じゃからな」
 浩介に目を戻した時には、元の表情に戻っていた。
「そうですか」
 ただ、それだけを答える。
 風が吹けば桶屋が儲かる――そんな物事の連鎖だが、啓太が草眞に道を教えていなければ、相当な大事が発生していたのだろう。自分の力を削ってまで浩介を助けたほどの恩を感じるようなことが。
「さて、と――」
 草眞は椅子から立ち上がり、眠っているリリルと気絶させた凉子を交互に見つめた。それから、すっかり空になった皿を眺める。
「随分と食ったの」
「草眞さん一人で半分以上食べてますけどね……」
 残らず食べられた料理。浩介や凉子もかなり食べていたが、草眞の食べっぷりは異常だった。一人で料理の半分を軽く平らげている。加えてどこからか持ってきた一升瓶を一人で三本も空にしている。鯨飲馬食という言葉が、浩介の脳裏に浮かんだ。
 草眞はどこか気まずげに視線を逸らしつつ、
「……ワシの部下には、料理の食い過ぎであちこちの飯屋から出入り禁止も喰らっているバカがおる。それに比べれば、大したことはない」
「何ですか、その大食い魔神は……?」
 思わず尋ねる浩介。
 それには答えず、草眞は椅子の背もたれに置いてあったたすきを手に取る。
「片付け始めるかの」
「はぁ……」
 浩介は生返事を帰した。


 時計を見ると、午後十一時。
 寝るには少し早い時間だが、浩介は自分の部屋に戻ってベッドに倒れ込んでいた。料理の片付けを終わらせてから、草眞は気絶した凉子を担いで凉子の家に向かい、眠ったままのリリルは部屋のベッドに寝かせておいた。
「熱い……」
 扇風機が浩介に向かって風を送っている。
 冷房が効いているため、夏場特有の蒸し暑さは無い。
 しかし、さきほど飲んだ酒のせいだろう。食べ物のせいもあるかもしれない。香辛料の入った料理も食べていた。身体の芯からじんわりとした熱が湧き上がっている。
「――ぅー……」
 薄手のパジャマ姿のまま、浩介は再び寝返りを打った。眠気はあるのだが、どこか妙に眼が冴えている。矛盾しているが、そうとしか表現できなかった。
 薄暗い室内。常夜灯がオレンジ色の光を放っている。
 身体の芯が熱い。疼いているような感覚だった。
 ぱたりと尻尾が跳ねる。
「なんか……」
 呻きながら、浩介は右手を胸に当てた。

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