Index Top 第6話 赤き教士 |
|
第5章 殺し屋再び |
|
目を開けて、部屋を見回す。 「ふあ……」 軽く欠伸をして、クキィは目を擦った。 常夜灯の淡い光が照らす、暗い部屋。枕元にある時計を見ると、夜の二時半。 隣のベッドではリアが寝息を立てている。 ベッドの横には教杖が立て掛けてあった。銀色の月輪型で外側に波状のギザギザが施されている。柄は木製で滑り止めの布が巻かれていた。いつも手の届く所に置いている。単純な装飾品ではない。法術に必要な道具だと、クキィは考えていた。 「喉乾いた――」 ベッドから降り、サンダルに両足を通る。 霞がかったような夜の思考。寝間着姿のまま、尻尾を揺らしながらクキィはドアへと向かった。ドアを開け、キッチンへと移動する。 簡素なキッチンを見回し、流しの前まで歩いていく。近くのコップを手に取り、中に水道水を注ぐ。ミネラルウォーター類は冷蔵庫に入っているのだが、瓶入りの高級品でクキィの舌に合わない。普通の水道水の方が違和感なく飲めるのだ。 コップの水を飲み干し一息ついてから。 クキィはふと横に目を向けた。 数瞬、意識が止まる。 「な!」 眠気が一瞬で吹き飛んだ。全身の毛を逆立たせ、耳と尻尾を伸ばし、目を見開く。あまりの唐突さに意識が追い付かない。思考を空回りさせながら、クキィはただそこにいる相手を凝視する。さっきまでいなかった。だが、今はすぐ手の届く位置にいる。 男が一人。 人間のようだが、人間ではない。亜人でもない。 見た目の年齢は二十代半ば。腰まで伸びた長い白銀の髪と、感情の見えない顔。赤紫色の双眸を静かにクキィに向けている。漆黒の長衣とマントという重苦しい恰好だった。 まるで幽霊のように存在感無く佇んでいる。 ディスペア。 その名が浮かんだ。 「半月ぶりくらいか。悪いが一緒に来て貰う」 囁くような小声。言い終わった時には、既にバルコニーへと飛び出している。思考を置き去りにする速度で、現実が進んでいた。意識が追い付かず、身体も動かない。 クキィを左手で荷物のように抱え上げ、足音も立てずに部屋を横切り、手刀の一閃で窓の蝶番を破壊し、バルコニーへと飛び出す。遅滞なく行われるディスペアの行動。 コップが床に落ちるのが見えた。丈夫なのか割れること無く鈍い音を立てる。 だが、現実逃避している余裕はない。 床を蹴り、鉄柵を蹴り、ディスペアは跳んだ。 「な……」 空中へと、迷わず身を躍らせている。 クキィがディスペアを見つけてから、三秒も経っていない。 星のあまり見えない夜空。ちらほらと見える街の灯り。ホテルの照明。車の停めてある駐車場。ホテルの壁面。それらが連続写真のように意識に飛び込んできた。 「な――」 身体を包む浮遊感。クキィの思考が辛うじて現実を掴み止める。 脳裏に弾ける既視感。いつぞや、いつぞや時計塔の屋根から飛び降りた時の記憶が再生される。クキィたちが泊まっていた部屋は十二階。地上からの高さは約四十メートル。前回よりいくらかマシであるが。 「なあああああああ――――!」 本気で泣きながら、クキィは叫んだ。 「どういう事よ。説明しなさい」 地面に座り込んだまま、クキィは傍らに立つディスペアを見上げた。 ホテルから拉致され、ディスペアに抱えられたまま走る事一分ほど。連れてこられたのは、中央公園のグラウンドだった。地面は固く踏み固められ、長く使われてきた形跡が伺える。夜も遅いため照明は無く、周囲は暗い。 月明かりの中、ディスペアの姿がぼんやりと浮き上がっている。 「私の目的はレイスと同じだ。"黒曜石"を回収したい。そのために、お前を人質として誘拐した。黒曜石を持って来なければお前を殺す、と。そうすれば必ず来る」 夜の闇に赤紫の瞳を向け、答えてくる。 それは予想外というほどでもなかった。少なくとも、ディスペアの口から語られて違和感のあるものでもない。常識外の物を常識外の者が回収しようとしている。 クキィにとっての問題は、そこではなかった。 「……もしレイスがごねたら、あたし死ぬ?」 尻尾を揺らしつつ自分を指差す。黒曜石を持ってこなければクキィを殺す。ようするに人質だ。レイスが断ればクキィは死ぬようだった。 吹き抜ける夜風に、銀色の髪が音もなくなびいている。 対して、ディスペアはあっさりと答えた。 「私は約束は守る主義だ。死ぬと認識する前に死ぬから、苦しくはない」 「慰めになってないわよ!」 ばしと地面を叩き、クキィは叫び返す。 ジュースでも買うような気軽さで交渉材料にされる命。あまりにも言い方が軽すぎて現実感がない。今に始まったことではないが。 ただ、違和感もあった。 その場にあぐらをかいて、膝に頬杖を突き、クキィはディスペアを睨み付けた。 「にしても、人質取って交渉って、遠回りな事するわね。なんで、あそこで奪っていかなかったの? いちいちあたしを誘拐する必要は無いじゃない。あんだけあっさり侵入したんだから、盗むのも簡単でしょう」 考えてみてもよく解らない。 明らかに無駄なことをしている。一度はクキィのいる部屋に侵入したのだ。キッチンの隣ではレイスが寝ていた。クキィを誘拐せずとも、直接レイスを襲う方が黒曜石を手に入れられる確率は高いだろう。 無感情な眼差しを空に向けてから、ディスペアが答えた。 「ひとつ、レイスはお前が考えている以上にやり手だ。ふたつ、私は必ずしも黒曜石が欲しいわけでもない。みっつ、ホテル内で戦いたくない」 無難な返答である。 しかし、ひとつ気になることがあった。 「欲しいわけじゃない?」 眉間にしわを寄せて、ディスペアを見上げる。 「教会が保管する事には反対はしない。だが私は、アレを教会が独占することには賛成しない。教会の手には余る力だからだ。アレを狙う者は多い」 夜の闇に浮き上がる黒い服と白い髪の毛。そこから何を考えているか読み取ることはできなかった。しかし、言いたい事は理解する。 クキィは唇を舐めてから、口を開いた。 「前に言ってたゲート計画の関係?」 「おおむね」 頷くディスペア。 一度目を閉じて、横を向く。 「来たようだ」 目を向けた先。 夜の闇から現れる、水色と赤色の長衣。リアとレイスだった。リアは左手で教杖を握り締め、右手に魔銃を持っている。本気で戦うつもりのようだ。二人が並ぶと、リアの方が背がたかいことがわかる。 その少し離れた所にガルガスとタレットがいた。 「おーい、クキィ。元気かー?」 「一応ねー」 やる気無く声を掛けてくるタレットに、クキィは片手を上げて答える。 これで、クキィの人質としての役割は終わりだろう。 リアとレイスが脚を止めた。距離は二十メートルほど。それは既に両者の間合いの内側なのだろう。夜の空気が硬く張り詰めていく。 レイスは前髪を手で掻き上げ、困ったように片目を閉じた。 「ディスペア。出てくるとは思ったよ。しかし、か弱い少女を誘拐して、ボクをおびき出そうとするとは、君らしくないね」 「無関係な者を巻き込むわけにはいかない。これは私的な事だ」 レイスの軽口に、ディスペアが淡泊な返事を返す。 夜の広場は静かだった。遠くから自動車の音などが時々聞こえてくる。夜も深いため、虫や動物の鳴き声もほとんど聞こえない。流れる風には土埃の匂いがついていた。 もうすぐ、ここで大規模な戦闘が開始される。 ディスペアが緩く握っていた右手を開いた。 「黒曜石は持ってきたか?」 「持ってきたと言って、信じるかい?」 教杖の石突きで地面を叩き、レイスが問い返す。 「匂いで分かる」 ディスペアの答えは簡潔だった。 そういうものらしい。レイスは何も言い返さず、リアも黙っている。ディスペアの要求通り、レイスは黒曜石を持ってやって来た。しかし、クキィと交換という気は無さそうだった。ディスペアは真正面からレイスを倒して奪い取ろうとしている。 リアの緑色の瞳が、ディスペアを真っ直ぐに見据えていた。しかし、法術は使わず魔銃の銃口も下げたまま。機を待っている。 「では、始めようか」 ディスペアの腕が、クキィの腕を掴む。 「って、何であたしを掴むのよ」 「危ないから離れていろ」 どこまでも淡々とした口調だった。 予想していた衝撃が、腕から全身を突き抜ける。眼の奥に弾ける閃光、一回転する視界。茶色の地面が見え、黒い夜空が見える。耳元で唸りを上げる風、消える平衡感。それももう慣れたようにも思える。 「どうしよう、これ?」 妙に冷めた意識の中で、クキィは思い切り投げ飛ばされたことを実感していた。 |
11/11/10 |