Index Top 一尺三寸福ノ神 |
|
第12話 一樹の苦悩 |
|
図書館特有の空気。本の香りとでも言うのだろう。 「一樹サマ、大丈夫なのですか?」 机の縁に腰を下ろした鈴音が、心配そうに声をかけてくる。少しだけ開いた窓から流れてくる風が、黒髪を揺らしていた。 「何とか……」 呻きながら、一樹は頭をかく。眼鏡を外して一度目をこすった。 一樹が座っているのは、窓辺の読書席だった。四人掛けの机がいつつ置かれていて、中央には仕切り用の半透明なアクリル板が立てられている。休日は大抵席が埋まっているのだが、今日は空いていた。それが鈴音の幸運のおかげかは分からない。 「うー」 机の上にはミニPCが置かれている。B5サイズよりも一回り小さいノートパソコンで、画面が小さかったりキーボード間隔が狭かったりと不便は多いが、それでも携帯性と価格は魅力だった。一ヶ月前に買ったものである。 ディスプレイを見つめつつ、キーボードを打つ。 文章作成ソフトに一行の文字が書き込まれた。一息ついて、視線を逸らす。意識がどこかへ逃避しようになるのを必死に堪えつつ、 「難しい……。たったレポート用紙一枚の感想文だというのに、何故ぼくはこんなに苦労しているのだろう? たった、たった原稿用紙三枚くらいの文章量なのに……」 こめかみを押さえながら、沈痛な面持ちで呻く。 木曜日の必修科目の課題だった。ビデオの感想をレポート用紙一枚にまとめてくる。それだけの簡単なものだ。しかし、その簡単な課題をこなすことができない。小学生の頃から作文は苦手だった。 「一樹サマって計算は物凄く早いのに、文章書くのは物凄く遅いです。一樹サマが完全理系人間と言われていた意味も何となく分かるのです」 鈴音は腕組みをしたまま、目を閉じて神妙に眉を寄せていた。 数学や理科などの科目は得意なのに作文が呆れるほど苦手なため、昔から完全理系人間と呼ばれていた。しかし、国語や社会の成績は普通である。苦手なのは作文だけだった。計算速度と作文速度の差からそう見えるのだろう。 「小学生の頃から読書感想文が鬼門だったし、卒論が今から悩みの種だ……。この感想文も必修科目だから、外すわけにもいかないし」 ぶつぶつと呻く。愚痴っても現状は変わらない。 三時間かけて半分ほど書き上げた。早い人ならば三十分もかからないだろうが、自分ではそうもいかない。それが得手不得手というものだろう。 「一樹サマ。ワタシ、本が読みたいのです」 「よし行こう」 鈴音の言葉に、一樹は即答してパソコンを閉じた。ディスプレイが閉じられたことで、自動的にスリープモードに移る。キー操作が不要なのは楽だった。 ミニノートをしまった鞄を肩にかけ、一樹は鈴音の身体に左手を回した。鈴音が両腕で掴まるのを確認してから、腕を持ち上げ胸元に抱きかかえる。 「さて、何の本が読みたい?」 椅子から立ち上がりながら、一樹は尋ねた。 「一樹サマ、現実逃避が露骨なのです」 「……息抜きさせてくれ」 鈴音の的確な指摘に、ため息混じりの言い訳を返す。 一樹は一度窓の外を眺めてから、並んだ本棚の間へと足を進めた。カーペット敷きの床を歩きながら、左右に並んだ無数の本を眺める。この辺りには、古典文学などが置かれていた。中央図書館のため、本の種類は豊富である。 「鈴音はどんな本が好きなんだ?」 一樹は本棚の側面に貼ってある地図を示した。図書館のどこにどんな本が置かれているか示した館内地図である。鈴音は一樹の腕の中で、その地図を眺めていた。 「ワタシはあんまり本を読んだことがないので、分からないのです。一樹サマのお勧めの本を教えて欲しいのです」 そう言いながら、見上げてくる。 「お勧めの本、といってもな……」 本を読むのは苦手ではないのだが、鈴音に進めるような本が思いつかない。まさか物理や宇宙関係の分厚い本を薦めるわけにもいかないだろう。鈴音は大量の文章を読むのが苦手なようである。 「そうだな、うん」 ひとしきり考えてから、一樹は歩き出した。 本棚の隙間を歩いてから、科学コーナーへとたどり着く。本棚に並ぶのは、いかにも難しそうなタイトルの新書だった。人を威圧する空気がある。 それらを眺めながら、鈴音が苦い顔をしていた。 「難しそうな本が沢山あるのです……。こういうのは苦手なのです」 「そういうのじゃないから、大丈夫」 一樹は本棚を眺めながら、右手を伸ばして一冊の本を取り出す。 さほど厚みのない新書だった。きれいな夜明けの写真が印刷された表紙には、簡素に一言だけタイトルが書かれていた。 「雲の名前、なのですか?」 鈴音がタイトルを読み上げる。 「風景写真集だよ。眺めてると息抜きになるから」 言って、表紙を開く。黄昏色に染まった空と、空に見える茜色の羽雲の写真があった。秋の夕暮れを撮ったものだろう。しかし、それは非現実的で幻想的な写真だった。 「きれいなのです」 その写真をじっと見つめる鈴音。 本全体のページは少ないが、ページは全てフルカラー写真と短い文章でで構成されていた。雲の名前、雨の名前、宙の名前など、シリーズ化された写真集である。この図書館には五冊あるのだが、他のは貸出中のようだった。 「これでいいか? これなら読みやすいし、鈴音の趣味にも合うだろうし」 「はい。この本は面白そうなのです。さすが一樹サマなのです」 閉じた本を両手で抱き締めながら、鈴音が尊敬の眼差しを向けてくる。 性格が分かりやすいので、その好みも簡単に分かるのだ。鈴音にとっては、それが的確に心を読んでいるように見えるらしい。 「ありがと」 軽く頭を撫でながら、一樹は礼を言った。人に喜ばれることをした後は気分が良い。 本を左手で抱えたまま、鈴音はびしっと窓辺を指差す。 「では、さっきの席に戻って読むのです。一樹サマも課題再開なのです。ワタシが本を読んでいる間に終わるのです。頑張るのです」 「うん……」 一樹は弱々しく頷いた。 |