Index Top 第6話 銀歌、街に行く |
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第6章 予想外の一手 |
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廊下向きの壁に走る細い切れ目。 壁の左から右まで、幅一センチほどの切れ込みが入っていた。表面が微かに焦げた、きれいな直線の切断跡。元の長さに戻る蒼刃。 廊下で何かが倒れる。布のような小さな音。 銀歌は術式への妖力供給を抑え、火力を最小まで落とした。雷炎が消え、腕に淡い蒼色の術式模様が残る。いつでも使えるように、術の解除はしない。 「ふぅちゃん……凄い」 「子供だと思っていたのに、私よりも強いじゃないか?」 莉央と美咲が戦いている。 晴彦は鎧通しを閃かせ、ドアの蝶番を切り捨てた。金属の留め具が紙のように斬られる。ドアが床に落ちる乾いた音。外を確認してから、振り返ってきた。 「また式妖だよ。さっきより大型の犬だ」 「そうか」 銀歌は頷く。予想外のものではない。 晴彦が懐から取り出した術符を用いて、壊れた壁やドアの修理を行っている。壊れたままにしておくのはまずい。妖怪が人間の領域で目立つのは困るからだ。 背後の二人を視線で示してから、 「とりあえず、警察に行きたい」 「風歌さんが先頭で頼む。私は後ろを守るから」 修復を終え、後ろに下がる晴彦。 総合的な戦闘力では晴彦が上だが、単純な攻撃の鋭さでは銀歌が上。敵は見つけ次第倒す必要がある。敵かもしれない銀歌を後ろに置くことを避けたいのが本心だろう。 淡い光を右手に纏ったまま、銀歌は廊下に出た。 廊下に倒れている黒い影。普通の二倍以上もある大きな犬。胴体を横に断たれ、断面から崩れて空気に溶けていた。 「頑張ってね、ふぅちゃん。頼りにしてるよ」 「ありがとよ」 莉央の応援に礼を言ってから、耳を澄ます。 周囲に敵らしき音はない。銀歌は両手を前へと向けた。今は蒼い模様だが、妖力を注げば瞬時に蒼刃となって敵を貫く。 「本当に使うことになるとは思わなかったよ」 左手で携帯電話を取出し、横の小さなボタンを押す。白鋼が面白半分に付け加えた緊急コール。使うことはないと思っていたが、思いの外早く使うことになってしまった。 銀歌は後ろの二人と、晴彦を見やる。 「行くぞ」 「了解」 晴彦の短い声。 美咲が言ってきた。 「くれぐれも無茶するなよ」 「分かってる」 銀歌は頷き、意識を放つ。 半径十メートルの哨界の術。高精度を保ったまま広げるのはこれが限度だった。哨界の術は範囲を広げるほど精度が下がるという欠点がある。 「知覚の許容量は一定だから、仕方ないけど」 声に出さずにぼやき、廊下を歩いていく。古い蛍光灯の灯った薄暗い廊下。 本来は足音を消すべきなのだが、美咲と莉央が足音を立てているので、意味はない。一般人に足音を立てずに歩けというのは、無茶なことである。 「敵の情報はどこまで分かってる?」 銀歌は振り向かずに尋ねた。敵が分からないことには、対策の立てようがない。 晴彦の困ったような声が耳に入ってくる。 「一方的に追われる立場だから、正直なところ私もよく分からないよ。でも、式妖しか使ってないみたいだから、数は少ないんじゃないかな? 式妖の種類も動物型だけだし、さほど強い相手ではない――と思いたい」 「ふむ」 尻尾を一振り。 敵は少数。式妖の強さからするに、使役者もさほど強くはないだろう。ただ、あくまでも推測でしかない。予想のまま下手に行動するのは自殺行為である。 「白鋼に渡す情報の内容は……知るわけないか。知っていても教えるとは思えないし」 「まあね」 苦笑する晴彦。多分、知らないだろう。 廊下を抜けて階段へ。二階から一階へ降りる無人の階段。 ビルの階段は薄暗く、人気もない。外の喧噪もほとんど聞こえず、足音が妙に大きく響いていた。妖怪の身でありながら、薄寒さを感じる。 銀歌は足を止めた。 「どうかしたのか?」 背後から美咲が声を掛けてくるが、聞き流す。 「出るなら、ここだ……。あたしならそうする」 銀歌は左目を閉じ、手で右目を撫でた。焦茶色の瞳に妖力が走る。 透眼鏡の術。猫神の名門大築一族の秘伝だった。哨界の術の高度な応用で、両目に妖力を込めて、強い透視能力を作り出す術。術力消費が大きいことが欠点で、銀歌の妖力では片目で数秒ほどしか持続できない。 「四体」 壁抜けの術で壁の中に潜む式妖。やはり大型犬のような姿。中心部には妖力を込められた紙が見える。穏行の術で気配を消しているが、この術からは逃れられない。 銀歌は右手を前に伸ばした。四本の指を標的に向け、術式に妖力を注ぎ込む。 チッ、という微かな音。蒼い光が燃え上がり、指先から矢のように伸びる雷炎。針のように細い蒼刃が、壁に潜む標的を貫いた。刃は一瞬で戻り、光が収まる。 「アタリ……と」 核を壊され、式妖が崩れた。 壁抜けの術も解除され、壁から外へと弾き出される。床と両方の壁、天井から落ちてくる黒い影の塊。既に犬の形は留めていなかった。床に崩れて、そのまま消える。 後には穴の開いた符だけが残っていた。 「凄いな、風歌さん。やっぱり白鋼さんの弟子なんだなぁ」 どこか呆れたような晴彦の声。 蒼焔を白鋼から教えられた術と思っているらしい。基本的な原理は放浪時代から考えていた。本格的に術として組み上げることを考えたのは、白鋼の所に来てからである。しかし、それを言う必要もない。 美咲と莉央は、言葉を失っている。 銀歌は一歩づつ階段を降りていき、一階まで移動した。ドアを開けて外の確認。 「降りても大丈夫だ。早く来い」 声を掛けながら右手を振る。 「うん」 「……世の中は広いものだな」 素直に降りてくる二人。 最後に晴彦が足を進めようとして。 「後ろ!」 銀歌の声とほぼ同時。 晴彦が振り向きざまに鎧通しを一閃させる。 背後から忍び寄っていた人影が、音もなく跳び退った。今までの犬型ではなく、黒装束を纏った人型。式妖ではなく、実体である。妖怪の……おそらく男。 「晴彦、引け!」 銀歌は両手を突き出した。十指に燃える蒼刃。 「風歌、後――」 「ッ!」 美咲の声。脳裏に星が散り、目の前が真っ白に染まった。 殴られたのではない。全身が引きつるような衝撃と痛み。電気が神経を貫いた時のものだった。背後から強めの電撃を食らったらしい。 (マズい。身体が動かない……) 心中で舌打ちをする。辛うじて気絶は免れたものの、数秒の麻痺という結果は残った。緊迫状態で数秒の損失は、致命的である。 「動け、動け……あたしの身体!」 心の中で叫びながら歯を食い縛り、銀歌は美咲と莉央を見つめた。何としても、二人を守らなければならない。晴彦は後ろの黒服と対峙していて動けないでいる。 だが、背後から伸びた腕が銀歌の腹を掴んだ。 「え?」 声にならない声で呟く。 状況を理解する前に、視界が跳ねた。白から黒、そして灰色。 二秒後に見えたのは、ビルの屋上だった。周囲に見える灰色の床。暗くなった空と、空に浮かんでいる雲。街の喧噪と、無機質な灯り。 (もしかして、あたし攫われた?) ぼんやりと自覚した瞬間、再び衝撃が走り―― 銀歌の意識は途切れた。 |