Index Top 第1話 銀歌の新しい人生

第4章 新しい服と新しい生活


 殴りつけて、その手応えに顔をしかめる。生き物を殴った手応えではない。比重の大きな液体を殴りつけたような、そんな感じだ。
「うげ……」
 思わず呻く。
 拳は葉月の顔面にめり込んでいた。顔の左下が歪んでいて、銀歌の手首から先を飲み込んでいる。人肌の水に手を突っ込んでいるような感触。
 葉月が二歩後退する。顔から手が抜けた。傷ひとつ残っていない。
「言ったでしょ? わたし、こう見えても強いって」
「液体の身体か……」
 自分の手を見ながら、呻く。
 一定の形を持たないために、刀も槍も、弓矢も銃も通じない。単純な殴り合いでは、ほぼ無敵だろう。ただし、相手の生命力に直接打撃を与える術を使えば、倒すことも出来る。一概に強いとも言えない。
「さっきの酒、神酒とか言ったな?」
 冷蔵庫を一瞥して、訊く。
 神酒。上級位の神の力が宿った酒。本物の神酒は、呑んだ物に凄まじい力を与える。無論、誰にでも作れるというわけではない。作れるのは酒神だけである。
「あいつが飲むのか? 胃がぼろぼろとか言ってたけど」
「栄養剤を加えて点滴にするんだよ」
 葉月が答えた。
「……?」
 銀歌は何か違和感を覚えて、口を閉じる。
 葉月は床に置いてあった紙袋を拾った。
 中から服を取り出し、見せてくる。
「サイズ、合うかな?」
「………。何だ、これ?」
 銀歌は顔を引きつらせて、服を指差した。
 清潔そうな白衣と、緋色の行灯袴。
「見てのとおりの、巫女装束。着てみて」
「着られるか! 普通の服用意しろ!」
 テーブルを拳で叩き、銀歌は怒りの声を張り上げた。贅沢が言える立場でないことは理解しいている。が、これはそういった域を軽く超えていた。
「普通の服はないのか! 普通の服」
「うーん。可愛いのに」
 巫女装束を指差して、葉月は困ったような顔をする。
「冗談じゃない。あたしは着ないぞ!」
 銀歌は全力で拒否し、歩き出した。着られる服を渡さないというのならば、自分で探すまでだ。どこに服があるかは知らないが、探せば見つかるだろう。
「仕方ないなぁ。ちょっと待ってよ」
「ひっ!」
 尻尾を掴まれ、銀歌は間の抜けた声を漏らした。
 背中に寒気が走り、手足から力が抜ける。手や肩なら振り払えばいいだけである。が、尻尾となるとそうはいかない。無理に引き剥がすのは痛いし、毛が抜けたら笑い話にもならない。それに、尻尾を掴まれると力が抜けてしまう。
「離せ……って、え?」
 振り返って、固まった。
 葉月の腕が伸びている。四メートルほど。腕だけでなく、袖も一緒に伸びていた。その手が尻尾を掴んでいる。液体の身体だから出来る芸当だが、実際に見ると不自然だ。
「ごめん、ごめん。尻尾掴んだことは謝るよ」
 尻尾から手を放し、葉月は手を元に戻した。
 銀歌のすぐ前まで歩いて来ると、
「最初からこうすればよかった」
 ドッ。
 銀歌のみぞおちに拳を叩き込んだ。
 重い。女の腕力とは思えないほどの、ありえない重さ。丸太で突かれたような強烈な一撃に、銀歌は声も上げられずに気絶した。
 飛び切りの笑顔を見せる葉月を眺めながら。


「うん。凄く似合ってるよ♪」
「…………」
 椅子に座った銀歌は、怨嗟の眼差しを葉月に向ける。
 気絶している間に、巫女装束を着せられていた。首の後ろ辺りに赤いリボンが付けられている。鏡を見たわけではないが、似合っているのだろう。物凄まじく。
「もちろん、わたしの許可なく着替えるのは禁止ね♪」
 パンと、胸の前で両手を打ち合わせて、葉月。
 銀歌は牙を剥いて、唸る。
「お前は、どういう神経してるんだ? 普通殴って気絶させるか? ものにはそれなりの順序ってものがあるだろ? 分かるか? あたしの言ってることが?」
「押して駄目なら、実力行使♪」
 葉月は動じていない。
 以前の大人の身体だったら迫力があっただろう。だが、この子供の身体では迫力というものが微塵も感じられない。大人の姿でも、葉月は動じないだろう。
「…………」
 ふと、何をやっても無駄なのだと悲しくなる。これから葉月の着せ替え人形にされるのだろうか。嫌な未来が脳裏を過ぎった。否定する要素もなさそうである。
「そういえば」
 葉月の言葉で現実に引き戻される。
「銀歌って掛け算出来る?」
「は?」
 バカにされたのかと思って、銀歌は葉月を睨んだ。
「掛け算くらい出来るに決まってるだろ」
「なら、分数の足し算引き算掛け算割り算出来る?」
「まあな」
「なら、方程式解ける?」
「何とか」
「じゃあ、因数分解出来る?」
「ん……む。ぎりぎり」
「対数関数とか累乗とか分かる?」
「やったような、やってないような……」
「微分積分出来る?」
 言葉に詰まる。
「うん。大体高校生くらいだね」
 頷いている葉月。
 その様子に寒気を覚えて、銀歌は慌てて椅子から立ち上がった。
「おい。お前、あたしに何をさせる気だ?」
「銀歌には大学卒業くらいの数学、科学、工学の知識を覚えてもらうから。御館様が助手を欲しがってるの。御館様の手術が終わって元気になってから勉強開始ね」
「ちょっと待て! 何だ、助手って! お前がやればいいだろ!」
 葉月の胸倉を掴んで、銀歌は声を荒げる。
 慌てることもなく、葉月は一歩下がった。服が液化して、銀歌の手からすり抜ける。
「わたしは駄目だよ。頭悪いから。それと、銀歌に拒否権はないよ」
 エプロンのポケットから一枚の紙を取り出して、銀歌の目の前に突きつけた。
 長々と文章が書かれている紙。書いてある内容を読んでいくにつれ、冷や汗が流れてくる。それは、東の長が書いた銀歌の処罰についてだった。
「銀歌の身柄は、以後死ぬまで御館様に任せる。御館様は銀歌を自由に扱うことが出来るもし、銀歌が逃げ出したら、終身封印刑」
 要約を口にする葉月。
 銀歌は顔をしかめて、思ったことを正直に尋ねた。
「あたしは奴隷か……?」
「助手だよ。頑張ってね」
 葉月はにっこりと笑う。

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