Index Top 第7話 臨海合宿

第13章 露天風呂の攻防


 石鹸で身体を洗ってから、湯船へと浸かる。日本独自の入浴方法だろう。もっとも、入浴はその土地の個性が出るため、どれが標準的というのは決めがたい。
 益体もないことを考えながら、慎一はタオルを頭に乗せていた。
「いい湯だ……」
 余計なことは考えず、湯船の暖かさに身を委ね、夕焼けの海を眺める。
 夕日に照らされ、茜色に染まる海。微かな波が夕日に照らされて白く輝いている。凪の時間のため、風はほとんど無い。空を見上げると、紫色に染まった羽雲が見えた。まだ八月とはいえ、秋はすぐ近くまで来ている。
 風呂場は漫研の合宿組で貸し切り状態だった。
「気持ちよさそうだね」
 慎一と同じように湯船に浸かりながら、一樹が言ってくる。タオルを頭に乗せたまま、眼鏡越しに見つめてきた。風呂でも眼鏡は外さないらしい。
「ひとつ訊いていいかな? 日暈がこの合宿に付いて来た理由、樫切に誘われたって聞いてるけど、それだけじゃないんじゃない? なとなく……だけど」
「個人的なヤボ用」
 視線を逸らしつつ、慎一は手短に答えた。
 壁の上から流れてくる湯に首筋を打たれている浩介。浴場の隅に設置された打たせ湯である。心地よさそうに目蓋を下ろし、惚けたような顔を見せていた。無防備とはこのような状態を言うのだろう。
「深くは訊かないよ」
 それだけ答え、一樹はお湯の暖かさを噛み締めるように目を閉じた。
「やぁやぁ、お二人さん」
 背後から聞こえてくる野太い声。
 振り向くと案の定アルフレッドが立っていた。腰にタオルを巻いたまま、左腕を腰に当て、挨拶するように右手を広げている。無駄に堂々とした態度だった。
「何の用だ?」
 慎一の問いに、右手をくいと持ち上げる。きらきらと煌めく碧眼。親指で女湯のある方を指差しながら、白い歯を見せ爽やかに微笑んだ。
「男女で風呂と言ったら、覗きだゼ?」
「………」
 聞かなかったことにして、慎一は正面に顔を向けた。目を閉じる。
 続けて聞こえてきた声は、智也のものだった。
「アルフ、日本じゃ覗きは軽犯罪法違反だぞ? 女湯覗いて放校とか強制送還はやめてくれよ。笑い話にもならないからな。覗くならきっちりとバレないようにやれ」
「部長、煽らないで下さい」
 一樹が呆れたように呟くのが聞こえる。
「それに――副部長も忘れたわけじゃないでしょう? 去年書記ヒメさんに見つかって、その後一ヶ月くらい覗きをネタに奴隷みたいにコキ使われたの」
 慎一は目を開けて、一樹を見やった。嘘を言っている表情ではない。浩介に視線で問いかけると無言のまま首を横に振る。否定の意味ではなく、肯定を意味する首振り。
「HAHAHAh! そんなコトはとうの昔にフォーゲッティングだZE!」
 高笑いとともにアルフレッドが断言する。
 湯船に浸かりながら、智也が大きく息を吐き出した。湯面を走り抜ける丸い波紋。畳んだタオルを頭に乗せながら、他人事のように口を動かす。
「今年もそうやって同じ過ちを繰り返すのかな? いや、今年はヒメだけじゃなくて、結奈もいるから、かなり悲惨なことになると思うぞ」
 合宿は参加自由なので、集まりはまちまちのようである。去年、結奈はスケジュールの都合が合わなく、参加していなかったらしい。浩介と一樹は去年も今年も参加。今年は一年生が全員都合が悪く、誰も来ていない。
「あー。今年はユイナもいるんだっけナー。そりゃーちょいと物騒だネィ」
 ぺしっと額を叩く音。自分の末路を想像したらしい。
 唐突に、声が聞こえてきた。
「いやー。ヒメさんって本当に胸大きいわね〜」
 全員の視線が一斉に壁へと向かう。高い木の板で遮られた男湯と女湯。大きめの声を上げれば、その声はもう一方に容易く届いてしまう。声の主は結奈だった。
 一度眉間を押さえ、慎一は無言のまま湯船を移動する。
「私、着やせするタイプだからね。それより、結奈ちゃんもなかなか……。引き締まった体付きは羨ましわー。筋肉ついていると違うね、やっぱり」
 続けて綾姫の声。
 水音も立てぬまま、慎一は湯船の端にある水道まで移動する。お湯が熱い時は水を入れて下さい――そう書かれたパネル。近くにあったプラスチック製の桶を手に取り、蛇口をひねる。桶を満たしていく透明な水。
「スタイルだけなら、私が一番ですよ。どうですか? このボンキュボーンの体型」
「いや、喩えが古いわよ……」
 凉子の言葉に、冷めた返事を変えす結奈。
 平然と湯船に浸かっている智也、額を押さえて無視しようとしている一樹、両手で耳を塞いで他人事のように目を閉じている浩介。慎一は満杯に水の入った桶を横にどかす。二杯目の桶は普通にお湯をすくった。
「グゥァアァァァッデェム!」
 そして、アルフレッドは両拳を握りしめ、仰け反っていた。両目から涙を流しながら、荒い鼻息を繰り返している。その姿はさながら興奮した猛牛だ。
「自信あるのね、凉子ちゃん。ならちょっと触らせてもらうわよ」
「って、ひゃぅ! ヒメさん、何してるんですか!」
「あたしにも触らせなさい」
「ちょ、結奈。そこダメ――」
 女湯から立て続けに聞こえてくる黄色い声に、アルフレッドは右足を風呂の床に叩きつけた。濡れた石畳が割れるほどの勢いで。女湯を指差しながら、無関心を装う自分以外の四人に血走った眼差しを飛ばす。
「Shiiiit faaack! ここまで挑発されて、黙ってるてのかヨ! おメーら、それでも男か? 男だってのカェ? いくぜ! ボク独りでも行ってやるヨ。この壁の向こうのパラダイスにナ! オラアァァ!」
 勢いに任せたまま、男女の風呂を分ける壁へと突っ走っていく。壁の高さは四メートルくらい。表面は木板だが、中身はコンクリート製だろう。アルフレッドは助走から跳び上がって壁の縁を掴もうとしているが、五十センチほど足りない。
「照準よし、投擲」
 桶をひとつ右手に持ち、慎一は勢いよく腕を振り上げた。満杯に水の入った桶が放物線を描いて飛んでいく。空中でひっくり返ることなく、水平を保ったまま。がりがりと壁を引っ掻くアルフレッドをあざ笑うように壁を越え、女湯に落ちていった。
 ガコッ。
「いだッ!」
「うきゃぁぁぁぁ!」
「ひっ、冷たいィ!」
 桶が何かにぶつかる硬い音と、三人の悲鳴。たっぷりと水の入った桶が命中し、さらに中の水がぶちまけられたのだ。平静でいられるはずがない。当たったのは結奈だろう。声から大体の立ち位置の見当をつけていた。
 浩介が戦くように見つめてくる。
「お前、そこまでするか? 凄いな……」
「絵に描いたような挑発されて黙っているほど、僕はお人好しじゃないんで」
 さきほどからのいかにもな会話。男湯にいる五人を釣るために三人で仕組んだものだろう。アルフレッドは罠と分かった上で突進しているようでもあったが、それは慎一にとってどうでもいいことだった。
 カッコッ、と硬い音が続けて聞こえる。
「アルフ、お前も人間なら少しあっちを見習え」
 女湯を指差し、智也が苦笑いとともに助言していた。壁の手前に椅子を積んでいることだろう。術などを使わずこの壁を飛び越えるには、道具が不可欠だった。
「ケッ、これだから軟弱なジャパニーズは。男は肉体一本、小道具になんか頼るかヨ」
 自分の胸を叩き、アルフレッドが反論する。
 慎一はお湯入りの桶を持ち上げた。
 ガシと椅子を蹴る音。さらに一拍置いて、壁の一番上に腕がかけられる。誰かの右手が男湯側の角を掴んでいた。誰の手かは考えるまでもない。手の主にとってここから身体を持ち上げるのは簡単なことだろう。
 青い目をきらきらと輝かせ、アルフレッドがその腕を凝視していた。
「Yeeeah! 女の子が向こうからやってきてくれたゼ! HEY! Came on!」
「凉子。ちゃんと受け止めろよ」
 そう口に出してから、慎一は右手を振り抜く。円盤投げのように。
 予想通り、壁を乗り越え顔を出したのは結奈だった。身体にバスタオルを巻いた姿で、壁から上半身を突き出す。ポニーテイルは解いていた。濡れた前髪を振り払い、その場にいる全員を睨んでから、
「しんィ――ふごァ!」
 飛んで来た桶に顔面を直撃され、台詞を言い切る前に女湯へと落下した。
 空の桶が男湯に落ち、中身のお湯が床にこぼれる。
 女湯から聞こえてきた落下音は、思ったりより小さかった。慎一の助言通り凉子が受け止めたのだろう。椅子を蹴ってから壁に掴まるまでの一拍の間を考えると、凉子が踏み台になっていたのかもしれない。
「大丈夫ー? 結奈ちゃん」
 綾姫の言葉が、慎一の勝利――っぽいものを証明していた。
 大きくため息をつき、慎一は力を抜いて、再び湯船に浸かる。疲れを取るつもりが、余計な疲れを作ってしまったようだった。
 眼鏡を一度取って目をこすってから、一樹が顔を向けてくる。眼鏡をかけつつ、
「日暈、君はぼくが思っていた以上に過激な性格なんだね」
 慎一は返す言葉も無く、曖昧な笑みを浮かべた。

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