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第6話 追う者、追われる者 後編


 木の葉っぱからしたたり落ちる水滴。
 一分ほど動けずに待っただろう。普通、この距離から人間が.50BMG弾を喰らえば、身体が粉々に砕ける。だが、女は仰向けに倒れただけだった。パラベラム弾も.50AE弾も通じなかったのだから、普通の反応は期待していない。
 サキツネは息を止め、AS50の銃口を倒れた女へと向ける。
「トドメ……」
 トリガーを引いた。
 衝撃音とともに、反動が銃身を突き抜け、再び爆風と発砲煙が辺りに撒き散らされる。撃ち出された弾丸が地面へと突き刺さり、土砂を派手に爆裂させた。
 だが、女はいない。
 勘に任せて視線を転じると、地面に女が立っていた。
「びっくりしました、ホント……。対物狙撃銃で撃たれるのは、生まれて初めてですよ。物凄い威力ですねぇ。これでは、もう左腕動かせませんね」
 自分の左腕を見ながら、女が感心している。肉が抉られ骨も折れ、派手に出血している左前腕。咄嗟に腕で弾丸を受け止めたのだろう。腕で受け止めてどうにかなるものでもないが、とにかく致命傷は避けていた。
 自動射出された薬莢が地面に落ちる。
 サキツネは無言のまま銃口を移動させ、トリガーを引いた。
 空を裂く弾丸が、女の背後にあった木の幹を粉砕する。女は苦もなく横へと飛んで避けていた。五メートルほど跳んで着地。長い黒髪が揺れる。この間合いでは、対物狙撃銃は破壊力以外の意味を成さない。
 鈍い音を立て倒れていく木。どんなに大破壊力でも、当らなければ意味がないのだ!
「さて、キツネさん――」
 女が右手に持った鋸を持ち上げる。
 音もなく、サキツネの頭の血が引いた。
 ブツン……!
 同時に、身体から重さが消え、神経を蝕む苦痛が消え、四肢に異様な力が漲る。
 サキツネは右足を曲げ、地面に足を付いて身体を持ち上げた。左太股を貫き、木の根に刺さっているロープ杭に構わず、強引に左足も持ち上げる。刺さった杭が木の根から抜けるのが分かった。
 両足でその場に立ち上がり、サキツネは女を睨み――
 即座に照準を合わせ、トリガーを引く。発射される.50BMG弾を、やはり女は苦もなく躱して見せた。背後にあった木の幹が轟音とともに裂ける。
 右足を付いて動きを止めた女に、持ってた狙撃銃を槍のように投げた。
「!」
 さすがにそれは予想外だったらしく、女が目を丸くする。
 だが、女がそれにどのように対処するかを見る前に、サキツネは身体の向きを変え、全速力で走り出していた。傷だらけの身体だというのに、手足が空気のように軽い。今まで生きてきた人生の中で、おそらく上位五位に入るほどの速度で走っている。しかし、全く苦痛を感じない。疲労も痛みも感じない。
 下草を蹴り、立ち並ぶ木を躱しながら、とにかく走る。
 背後から響く、風を切る音。
 微かに視線を動かした先に、鎌があった。普通の草刈り鎌で、これもホームセンターで買ったものだろう。無論、凶器としては充分だった。背後から投げつけたらしく、くるくると回転しながら、サキツネの横三メートルほどを通り過ぎていく。
 途端、回転を止め、軌道を内側に変えて、胸元めがけて跳んできた。
 空中に一瞬だけ見えた細い線。
「針金……」
 細い針金が鎌の柄に縛り付けられている。それを利用して、軌道を変えたのだろう。狙いは心臓。鎌に向かって全力疾走している状態なので、左右に避けることはできない。無理に避ければ転倒するだろう。止まったら、多分後は無い。
 そして、鎌はもう目の前にある。
 方法はひとつ。サキツネは迷わず左手を持ち上げた。前腕を鎌の刃が貫通する。根本まで。前腕の内側にある骨の一本、尺骨が折れた。だが、痛みを感じている余裕はない。アドレナリンの溢れる脳が、痛み自体を不要と斬り捨てる。
 左腕を引っ張られる感触。針金が引かれ、鎌刃が残った橈骨に食い込んでいた。
 続く動きにも迷いは無かった。サキツネは右手に取り出したコンバットナイフを一閃。鎌の柄に縛り付けられた針金を斬り捨てた。これも、普通に打っている細い針金。専門の鋼線ほどの強度はなく、あっけなく切れる。
 ついでに、持っていたナイフを背後に投げつける。意味の無い牽制のつもりだったが。
 キン、と――
 ナイフを弾く音は、かなり近くで聞こえた。
 言いようのない悪寒が走り抜け、全身が粟立つ。狐耳がぴんと立ち、尻尾の毛が爆ぜるように逆立った。振り向いて背後を確認する勇気は、無かった。
「食われ、る……!」
 右手を持ち上げる。
 その手に握られたのは、RPG-7。携帯式対戦車擲弾発射筒。ソビエト製の対戦車兵器である、全長一メートルほどの筒と弾頭から作られたロケット砲だった。単純な形状で扱いやすく、安くてそこそこ高威力という理由で、途上国などでよく使われる代物だ。
 走る勢いはそのままに、サキツネはおよそ十キロのロケット砲を右肩に担ぐ。ただし、前後逆に。正面向きに構え振り返って撃つ勇気はなかった。
 背後に迫ってきた殺意無き殺気に狙いを定め、トリガーを引いた。
 ――!
 鼓膜が吹き飛ぶかと思うほどの爆音。目の前に散ったバックブラストに、視界が真っ白に染まる。だが、その火炎を突っ切り、サキツネは走った。
 真後で爆裂する、火炎と衝撃波を背に感じながら。


 どれくらい走っただろうか――。
 走る体力も気力も使い果たし、サキツネはふらふらと蹌踉めきながら森を抜け、道路に出た。舗装された二車線道路。向かいには畑や広い家などが見える。逃げ込んだ林の反対側だろう。背後を振り返ってみても、もう女は追ってこない。
 道端に止めてある青いトラックが目に入った。荷台には鉄パイプやスチール製の足場板や梯子などが置かれ、積卸し用のクレーンが設置されている。建設現場からの帰りだろう。近くの自動販売機で、飲み物を買っている男二人の姿が見えた。
「おじゃまします」
 小声でそう言ってから、サキツネは荷台の縁につかまり、上へと転がり込んだ。
 泥の散らばった荷台に腰を下ろしたまま、大きく息を吐く。男たちが運転席と助手席に乗り込み、トラックを発進させた。しばらく乗っていれば、どこか適当な場所に着くだろう。とにかく、身体を休め早くこの場から離れたかった。
 夜の風を感じながら、サキツネは包帯と消毒液を取り出し床に置いた。一度息を止め、左腕に刺さった鎌を引き抜き、荷台から放り投げる。カツと、アスファルトに鎌の落ちる音。二度の攻撃でちょっと千切れそうな左腕。持ち前の頑丈さで出血はとりあえず止まっているものの、回復には時間が掛るだろう。
 右手で消毒液の蓋を開け、サキツネは中身を傷口へと無造作にかけた。
「ッ!」
 強烈な衝撃に歯を食いしばり、涙を流しながら神経に響くような痛みに耐える。尻尾の先端がぴくぴくと痙攣していた。だが、消毒を怠るわけにはいかない。
 落ちていた鉄の棒の破片を添え木代わりにして、傷口を包帯で縛って応急処置。
 左太股に刺さったロープ杭を抜き、消毒液を掛け、包帯を巻き付ける。
 最後に、脇腹に刺さった鉈を引き抜き、道路へと放り投げた。セーラー服の裾を持ち上げ、傷口に消毒液を注ぎ、お腹に包帯をぐるぐる巻きに巻き付けて終わり。折れた肋骨はそのままだが、放っておけば治るだろう。昔から頑丈さには自信がある。
 ふっ……
 と、何かが光ったように見えた。
「!」
 瞬間、サキツネの顔の真横を何かが擦め、真後ろから甲高い金属音が響く。振り向いて見ると、鉄製の足場板に鋸が刺さっていた。あの女が持っていた鋸。
 無言のまま視線を後ろへと向けると、暗闇の向こうから誰かが走ってくる。およそ時速六十キロで走るトラックを上回る速度で。
「そのトラック、待ちなさァい!」
 あの黒髪の女だった。
 折れた左手はそのまま、右手にはさきほどサキツネが放り捨てた剣鉈を握っている。血塗れの白いワンピースのまま、長い黒髪をなびかせ疾走していた。裸足のまま。推定時速八十キロくらいで。もはや、人外すぎて恐怖も浮かんでこない。
「キツネさんッ! 絶対に、逃がしませんよォォォ!」
 元気に叫びながら、女が右手を振った。投げられた鉈が、クレーンのアームにぶつかり、表面を削り取ってから、積んであった足場用パイプに突っ込む。見耳障りな金属音とともに、パイプ三本が切断された。さながら砲弾のような威力である。
 怪我のせいだろうか、狙いはかなりいい加減だった。
 得物の投擲は無理と判断したのか、女が荷台によじ登ろうと右手を持ち上げる。トラックと女との距離はすぐそこまで縮まっていた。
「殺されるかな?」
 半ば諦め気分で、サキツネは女を見つめる。
 女が荷台の後ろテイルゲートを掴んだ。指が鉄の板へとめり込むほどの力で。あとは、地面を蹴って身体を荷台へと持ち上げるだけだった。
 他人事のようにその様子を見つめるサキツネ。
 女が地面を蹴ろうとして――
「ぎゃアァァアァ!」
「出たあああああ!」
 絶叫とともに、トラックが急加速を始めた。運転席の男たちが、追いかけてくる女に気づいたらしい。血塗れの白いワンピース姿で、長い黒髪を振り乱して走る女。大の大人でも泣くような代物だった。
「あっ」
 急加速に、女が思わず手を放す。テールゲートの縁にくっきりと残った手形。
 ほぼ直線に近い道路を、トラックは法定速度を完全に無視して突き進んだ。運転席からは悲鳴じみた念仏やら、意味不明な絶叫が聞こえてくる。
「あれ。ちょ……ちょっと待って下さい!」
 女が慌てたように声を上げる。ついでに、右手を伸ばすが届かない。
 すぐそこまで迫っていた女が、見ている間にトラックから離れていく。さすがに人間離れした疾走でも、時速百キロ以上まで加速したトラックの方が速いようだった。少しして追いつけないと悟ったのか、女は足を止めサキツネをじっと見つめる。間に合わなかったバスを見送るような、そんな残念そうな眼差しで。
「バイバイ」
 なんとなく、サキツネは右手を振ってみた。
 ほどなく、女の姿が夜の闇へと消える。


 十分ほど走ってからパトカーに停められたトラック。
 運転席にいた男二人が、泣きながら二人組の警察官に事情を説明している。説明といっても支離滅裂な泣き声だが。バインダーを持った警察官が、鉄製の足場板に刺さった鋸と、クレーンアームを削りパイプ三本を切断した鉈、そしてテイルゲートに残った手形を気味悪そうにを凝視していた。
 もう一人の警察官は、パトカーの無線で警察署と連絡を取っているようである。
 異様な空気が場を包んでいた。
 近所の家から、野次馬らしき人影が覗いている。
 人目を避けるように荷台から降りたサキツネは、よたよたとその場から離れていた。ここまで来ればもう大丈夫だろう。だが、しばらく夢に出てきそうな気がする。
 結局あの女は何だったのだろう? たこ焼きを盗み食いして、ここまで追いかけられた。普通の感覚ではそこまでやるものではないのだろが。
「食い物の恨みは怖ろしい――」
 そうしみじみと頷いてから、ふと目に入った看板。
『百目鬼歯科医』
 緑と白の簡単な看板で、特徴のある名前。
 時々上がり込んでいる物書きの男のアパートへの目印だった。暗いのでよく分からなかったが、辺りを見ると見慣れた風景が広がっている。
「帰れるかも」
 独りごちてから、サキツネは足音もなく歩き出した。

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