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第5話 追う者、追われる者 中編 |
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忌地に踏み入れた人間が不用意に封印を解いてしまい、封じてあった化け物に延々と追われる――そんな怪談をどこかで聞いたことがある。誰かの話か本に書いてあったものか、はたまたネットに落ちていたものかは覚えていない。 だが、自分がその追われる立場になるとは思わなかった。 「何故こんなことに?」 尻尾を振りながら、自問する。 答えは簡単だった。たこ焼きを盗み食いしたのが原因だろう。しかし、鋸持って追いかけられる状況は想定外である。食い物の恨みは怖ろしい。 腕と足の傷には包帯を巻いて応急処置をしておいた。 辺りに広がるのは、暗い広葉樹林。日は暮れて雨も降っているため、重く不気味な空気が漂っている。葉からしたたる水滴が、下草を叩いた。姿を隠せると思って近くにあった林に逃げ込んだのだが、逆効果だったらしい。あの女が追って来ているのは本能的に分かる。どこにいるのかは分からないが。 多分、どちらかが倒れるまで追跡は続くだろう。 「殺るか、殺られるか」 濡れた地面に伏せたまま、サキツネは右手を持ち上げた。人差し指で、少し離れた所を指差す。術系はあまり好きではないのだが、状況が状況だけに仕方がない。 くるくると指を回すと―― ポッ、と音を立てて狐火が現れた。 二十メートルほど先の木々の間。焚き火ほどの青い炎。燃料もなく、静かに燃えている。その近くには、妖力を固めた縦長の薄い影。遠目には、無防備に立ったまま狐火で灯りを作ったように見えるだろう。 風切り音とともに、影が弾けた。そして、鈍い音。 後ろの木に鉄の棒が突き刺さっていた。一方が丸く曲げられたロープ杭である。無論、地面に刺してロープを張るものであって、木を貫通する勢いで飛ばすものではない。 躊躇無く、頭の位置を撃ち抜いたロープ杭。 「逃げよう」 無言のまま呟き、サキツネは身体を起して歩き出した。足音を立てないように慎重に。この辺りまでは狐火の明かりも届かない。濡れた下草が足に絡みついてくる。 「見つけましたよ、キツネさん」 声は、近かった。びくりと肩が跳ね、尻尾の毛が爆ぜるように逆立つ。 視線を転じると、女が佇んでいた。距離は五十メートルほどだろうか。腰まである長い黒髪、場違いに穏和な顔立ち、白いワンピース、白いサンダル。離れているのに、なぜかその姿は闇の中にくっきりと浮かび上がっている。 捜し物でも見つけたような気楽な表情で、女はサキツネを見つめていた。 「随分とおかしな所に逃げましたね。探すのに苦労しました」 周りの木々を眺めながら、暢気に微笑んでみせる。 サキツネは息を飲み込こんだ。湿った空気がぬるりと肌に絡み付いてくる。 女は左手にホームセンターの紙袋を持ち、右手にステンレス製の定規を持っていた。一番最初に斬りかかってきたあの定規である。枝切り鋸はしまったらしい。 右手を持ち上げる女。定規をサキツネに向ける。 弾ける白光と破裂音。 同時にサキツネはブリッジするほどの勢いで身体を反らしていた。一昔前に流行った映画マトリックスの一場面が脳裏に浮かぶ。眼前を凄まじい勢いで貫いていく定規。背後で爆発するような音が聞こえた。木に刺さったのだろう。 真上から無数の水滴が落ちてくる。 サキツネは後ろに回した両手に二丁の銃を握った。 大型自動拳銃デザートイーグル.50Action-Express。使用される50AE弾は自動拳銃では最大の威力を持ち、防弾ベストすら貫通するほど。無論、反動は非常に大きい。 「これで、どうだ」 尻尾でバランスを取りつつ身体を跳ね起し、女のいた方へと二つの銃口を向ける。拳銃を向けたのは半分威嚇のつもりだったのだが、現実には意味は無い。 女は――目の前にいた。 「!」 四十メートル以上あった距離を一秒も立たずに消し去り、白兵戦の間合いへと飛び込んでいる。右手には刃渡り三十センチ弱の鉈が握られてた。切先のある剣鉈である。枝打ちに使うものだろう。凶器としては十分だった。 横薙ぎに振り抜かれる鉈。 サキツネは後ろに跳びながら、トリガーを引く。火薬の破裂音とともに、反動が両腕を突き抜けた。撃ち出される二発の弾丸。一発は女の左腕をかすめ、もう一発は火花とともに弾かれた。女が鉈の腹で横に弾いたのだ。 「うそ……?」 .50AE弾を見切って鉈で弾く――人間ではない。 刹那、女の踵がサキツネの左胸に突き刺さる。サンダルの踵部分には金属が仕込まれているようだった。ゴキ、と肋骨の折れる音が体内に響く。浸みるような激痛に鼻頭が痺れ、目から涙がこぼれた。痛みと横隔膜の痙攣で、まともに動けない。 だが、止まれない。 女が足を下ろし、鉈を振り上げる。 形振り構わず逃げながら、サキツネは再びトリガーを引いた。この距離では逆に狙いづらいが、外れることもまずない。それでも、黒髪の女は当たり前のように銃弾の一発を鉈の腹で弾いてみせる。超音速の銃弾が完全に見切られていた。 だが、時間差で放たれた二発目は捌けない。胸の中心のやや左――心臓のある辺りへと命中した。白いワンピースを貫き、自動拳銃最強の弾丸が女の身体へとめり込む。さすがに動きが止まった。 畳み掛けるように、サキツネはデザートイーグルを構え。 ――銃身が爆ぜる。 暴発ではない。振り抜かれた分厚い鋼の刃が、銃身を砕いていた。濡れた地面に黒や銀色の金属片が落ちる。残った銃身も歪んでいて、使い物にならない。 鉈を下ろし、女は自分の胸を押さえる。 「うぅ、今のは痛かったですね……。それ、随分と大きな拳銃ですけど、日本じゃ許可無く拳銃を持つのは銃刀法違反ですよ。それに、銃器類は人に向けて撃っちゃいけません。当たったら大変ですから」 砕いたデザートイーグルを見ながら、子供を諫めるように眉を傾けた。決定的に何かがズレた台詞だが、本人は普通に思ったことを口にしているだけだろう。押さえた手から赤い染みが広がっている。傷はあるようだが、致命傷にはなっていない。 胸から放した手には、潰れた.50AE弾があった。適当にそれを投げ捨てる。 強烈な踏み込みから、女が剣鉈を突き出した。矢のような速度の突き。 「南無三」 サキツネはあえて前へと進む。壊れたデザートイーグルを手放して―― 剣鉈が左脇腹へと突き立てられる。 「ッ!」 分厚い鋼の切先が、セーラー服の生地を斬り、皮膚を裂き、腹筋を貫き、内蔵まで進入してきた。衝撃はあったものの、痛みはまだ無い。女の動きが一瞬止まった。 女が鉈の柄から手を放し―― サキツネの右手に握られた短機関銃MP5Kが、銃弾を吐き出した。環境に優しいステンレス製弾頭の9mmパラベラム弾が、女の身体に連続して着弾する。普通の人間ならば、蜂の巣だろう。だが、世の中そう甘くもない。 二歩後退しながらも、しかし女は倒れなかった。 「今度は機関銃……。キツネさん、それどこから取り出しているんです? 四次元ポケットでも持っているんですか? これは、厄介ですね」 マガジンの十五発を撃ち尽くした短機関銃を見つめ、女が困ったように呟く。あちこちから出血しているというのに、それを気に留めている様子もない。実際、皮膚を貫いた程度の銃創のようである。致命傷にはほど遠い。 「次は何を出してきますか」 そう問いかけてから、女が退いた。黒髪とワンピースの裾をなびかせ、まるで飛ぶように十メートル近く後ろへと跳躍し、そのまま地面を蹴って右へと跳ぶ。闇の中へと消えるのは文字通り一瞬。 「痛い……」 根本まで刺さった鉈を左手で押さえ、サキツネは呻く。 左前腕の内側から流れ落ちる赤い血。動脈が切断されている。鉈から手を放した瞬間に、女が右手の指先で斬っていたのだ。刃物による創傷のような傷口は鋭利で深い。健も斬られたのか、指も動かなかった。 流れ出た血が、セーラー服とスカートを赤黒く染めている。 「血の染みは落ちにくいのに」 意味のない愚痴をもらしながら、蹌踉けるように後ろに下がり、木の幹に背を預けた。硬いながらも冷たい木の幹が、熱くなった身体の熱を奪う。 サキツネは狐耳を立て、周囲に視線を向けた。さきほど作った狐火は消えている。 静かな夜の林。女の気配は無い。逃げたわけではないのは、考えずとも分かる。だが、どこにいるのか見当も付かない。頬を冷や汗が流れ落ちる。向こうは自分の居場所を的確に把握しているだろう。 微かな雨音の音だけが響く、夜の林。上がった呼吸や心臓の音が、やけに大きく聞こえていた。追い詰められている。しかも、肋骨数本を折られ、脇腹に剣鉈を刺され、左腕の動脈と健を斬られていた。それなのに、戦う選択肢しか残っていない。 短機関銃をしまう。9mmパラベラム弾では火力不足、.50AE弾でもまだ足りない。 「最大攻撃といったら、これ――」 取り出したのは子供の背丈ほどもある対物狙撃銃だった。 アキュラシーインターナショナル社製AW50。主にイギリス軍で使用される対物狙撃銃である。これはアメリカ海軍特殊部隊の要望で作られたセミオートモデルAS50だった。発射される.50 Browning Machine Gun弾は一キロ離れた人間をも粉砕する威力を持つ。あの女にもおそらく通じるだろう。 右腋でストックを抱え、右手でグリップを持ち、前に出した左前腕に二脚の辺りを乗せる。本来は地面に伏せて使うものだが、状況が状況なので細かいことは言ってられない。 五秒、十秒、三十秒―― 一分、二分、三分……。 無音のまま悪戯に時間だけが過ぎていく。 「それじゃ駄目ですよ、キツネさん」 「!」 悪寒が背筋を駆け抜けた。黄色い目が見開かれ、思考が止まる。 目の前に閃く銀色の刃。枝切り鋸。暗闇から、一切の躊躇無く首を切り落とす軌道で迫ってきた。脳内に溢れるアドレナリンに、余計な感覚が切り捨てられ、急激に時間が緩慢になっていく。それでも、鋸の速度は速かった。 本能が身体を突き動かす。サキツネは迷わずその場に腰を落とした。 「何、これ?」 時間の流れは変わらない。異様に遅く、無音の世界。なぜか見えない部分まで見え、酷く客観的に自分の周囲で起こっていることを知ることができた。 紙一重で頭上を通り抜ける鋸。狐耳の先端の毛が鋸歯に数本引き千切られる。 ザッ! 鋸は振り抜かれた勢いのまま、サキツネが寄りかかっていた木を両断した。さほど太い木ではなかったが、冗談のように叩き斬っている。もはや鋸の破壊力ではない。 その場に腰を落としたまま、サキツネは右側に身体を向けた。 左手に持った鋸で立木を斬った女。長い黒髪と血で染まった白いワンピースを翻し、その瞳でサキツネを捉えている。血まみれのまま、殺気も敵意も無く、鋸で立木を切断する姿は、もはやバケモノの一言だった。 女が右手に握ったロープ杭を投げつける。 「刺さる。避けられない」 緩慢な時間は終わらない。 なすすべもなく、サキツネは攻撃を甘受した。四十センチほどの鉄の丸棒が、斜め上から左太股に突き刺さり、肉を裂き、骨を擦りながら足を貫通――反対側から突き抜ける。その過程が肌で感じられた。さらに、杭が硬いものへと突き刺さる衝撃。木の根だろう。だが、それでも止らず、杭が木の根へと突き刺さっていく。 ロープを通す丸い部分が太股にぶつかり、ようやく止まった。貫通した杭が、足を木の根に縫いつけている。これでは逃げられない。 不自然にコントラストの強い、モノクロの世界。 「終わりです」 女の目がそう語ったように思えた。左手に持った鋸を振り下ろしてくる。異様に速く、そして異様に遅い斬撃。首筋から身体を斜めに両断する軌道。逃げられない。防げない。避けることもできない。だが、終わりではない。 サキツネの対物狙撃銃も女へと向けられていた。ストックを木の幹に押し当て、意識の外でトリガーを引いている。撃針が雷管を叩き、発火した火薬が膨大な圧力を作り出し、フルメタルジャケットの弾頭を撃ち出した。初速は秒速八百メートルを上回る。 文字通り手の届く距離からの狙撃。逃げることも避けることもできない。 ドグォンッ! 爆音とともに、.50BMG弾が女へと撃ち込まれた。 時間の流れが、無色の世界が、元に戻る。 三メートルほど吹っ飛んでから、女は鈍い音とともに仰向けに倒れた。受け身も取れず地面に落ちる。辺りに漂う発砲煙。飛び散った爆風に木の枝が揺らされ、大量の水滴が辺りに降り注いだ。 「倒した……?」 サキツネは静かに問いかける。無論、返事は無い。 自動射出された薬莢が地面に落ちる、微かな音が聞こえた。 斬られた木の倒れる音が、無音の林に響き渡る。 |