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第7話 ガムテープとカレー


 玄関のドアの鍵が開いていた。
 泥棒ではないだろう。
 玄関に置かれた見慣れた革靴を眺めながら、俺は小さく吐息する。また、あいつが来ているようだった。いつものことで慣れたけど、せめて断りを入れて欲しいとは思う。
 そんな事を考えながら、俺はスーパーのビニール袋をテーブルに起き、寝室のドアを開けた。台所にいないとなると、大抵俺の寝室で昼寝している。
「……何だコレ?」
 部屋に広がる光景に、俺は思わず呟いていた。日当たりの良い六畳の和室。
 畳の上にキツネの女の子が転がっている。癖のある長い狐色の髪と、どこか生意気そうな顔立ち。凹凸の少ない、細い身体付き。服装は緑色のセーラー服に黒いオーバーニーソックス。いつも通りのサキツネだった。
 一部を除いて。
「んー……!」
 俺を見つめ、うねうねと動くサキツネ。希望に瞳を輝かせながら。
 その全身が、ガムテープでぐるぐる巻きになっていた。頭の上に伸ばした両手から、顔、胸、お腹、腰、足まで、きれいにテープが巻き付けられている。尻尾は足と一緒に巻かれていた。足元から少し放れた場所に、切っていないガムテープが落ちている。
「えっと」
 俺は首を傾げる。どういうことだろう、これ?
 テープが口を塞いでいて、サキツネはまともに喋ることもできないようだった。幸い鼻は塞がれていないので、窒息はしていない。
 両手を頭の上に伸ばしたまま、手の方から順番にガムテープを巻いていけば、多分こうなる。ただ、一人では出来ないだろう。常識的に考えれば。
「何やってるんだ、お前……? 泥棒か何かにやられたのか?」
「んー!」
 腕組みした俺の問いに、首を横に振ってみせる。他人にやられたというわけではないようだ。ということは、自爆らしい。何でこうなったかはそれこそ謎であるが。
「さて、どうしたものか?」
 天井に視線を持ち上げた俺の脳内に、いくつかの選択肢が現れる。
『1.助ける』
『2.このまま見ている』
『3.イタズラする → 健全 or 性的な意味で』
 顎に手を添え、黙考。
 善良な一般市民としては選択肢1が普通だろう。だが、健全な青年男子として3の選択肢も捨てがたい。なんか色々マズいけど、そういう誘惑があるのは紛れもない事実だ。選択肢2はあんまり魅力無いし、パス。
 サキツネが黄色い瞳に涙を浮かべ、俺を見つめている。
 十秒ほど心のカーソルを動かしてから、俺は決断した。
『4.見なかったことにする』
 くるりと踵を返し――
「んー! んンー!」
 背後から聞こえてくる苦情の呻き声。のたのたと動く気配も伝わってくる。見捨てないでと全身で主張しているようだった。
 ため息をついてから、俺は肩越しにサキツネを見つめる。
「だって、どうしろっていうんだよ、この状況……?」
「んんんー!」
 サキツネが必死に目で示しているのは、タンスの上にあるペン立てだった。シャーペンやボールペン、マジックペン、カッターナイフやハサミなど色々と突っ込んである。手近にある文房具類を適当に放り込んだものだ。使うことは少ない。
「助けろってことね。助けるのが普通なんだけど」
 空笑いとともに頭をかいてから、俺はハサミを手に取った。ぐるぐる巻きとはいえ、ただのガムテープ。ハサミで十分切れるし、切ってしまえば後は楽である。剥がす時は痛いだろうが、それは俺の責任ではない。
 くるくるとハサミを動かしながら、俺はサキツネの傍らに腰を下ろした。
 まずは口元のテープを切ろうとハサミを伸ばし、
「ンンンー! ンンー!」
 見開いた黄色い目から滝涙を流し、サキツネは首を横に振っている。さらにうねうねと逃げるように身体をくねらせていた。全力拒否の態度。ナイフ突きつけられてもこんな顔しないだろうってほど必死の形相である……。
 何で?
 疑問に思いつつ、サキツネが凝視している俺の右手に目を移す。
「あれ?」
 さきほどハサミを手に取ったはずなのに、握られていたのは蓋の取られた油性マジックペンだった。しかも、なぜかサキツネの口元ではなく、額に伸びている右手。
 そのまま『肉』と書こうとしている。まさに無意識の行動だった。
「おおゥ!」
 俺は慌てて後退り、油性ペンに蓋をしてから胸をなで下ろす。危ない危ない、自分でもよく分からない悪戯してしまう所だった……。
「んー……」
 サキツネも安心したように鼻から細い息を吐いている。
 サインペンをペン立てに戻し、改めてハサミを持ってきた。
 右手の中でシャキシャキと動かしてみる。黒いコーティングの施されたハサミ。五百円もしたちょっと高級品である。テープなどを切ってもくっつかないのが売りらしい。あんまり使ってないけど、切れ味や動きに問題は無いだろう。
 俺はサキツネの横にしゃがみ、肌に貼り付いていないもみあげと頬の隙間にハサミを差し込み、ガムテープを切った。テープを切ってもくっつかないという謳い文句の通り、粘着面に引っ張られることもなく簡単に切れる。続いて反対側を切る。
「痛いけど我慢しろよー」
 他人事のようにそう言ってから、俺はテープの端を掴んだ。
 サキツネが身体を硬くするのが分かる。
 俺はそのままガムテープを引っ張った。
「イういゥィィ……!」
 口元から漏れるよく分からない声と、ペリペリとテープの剥がれる音。肌が引っ張られつつも、テープが剥がれていく。そこはかとなく笑える表情で、サキツネは痛みに耐えていた。口元に貼られたテープを剥がすのは、普通に痛い。
「いゥッ!」
 最後の声とともに、口を塞いでいたテープが剥がれる。伸びていた頬が元に戻った。顔の下側を横断するように、赤い跡が残っている。
「お兄さん、痛い……」
 目元に涙を滲ませ、サキツネが恨みがましく見つめてきた。
 あ、ちょっと可愛い……。
 思わず口元に浮かびかけた笑みを強引に呑み込み、俺は平静を装って尋ねる。剥がしたガムテープをひらひらと動かしつつ、
「何があったんだ? 新手の自縛プレイ?」
「分からない」
 サキツネの答えは短かった。
「昼寝して、目が覚めたらこうなってた」
「よく分からんけど……」
 元々このガムテープはこの部屋にあったものだ。おそらく、寝てる最中にテープの端を手に引っかけて、そのまま寝返りで自らぐるぐる巻きになったんだろう。腑に落ちない点も多いけど、これが一番納得のいく説明だ。
 俺はハサミでサキツネの手に絡みついたガムテープを切っていく。
 十秒も経たずに両手が自由になった。
「助かった……」
 切れたテープの貼り付いた両腕をストレッチするように動かしながら、手を突いて上半身を持ち上げる。だが、自分の手に残ったガムテープを見つめてから、
「ゆっくり剥がすのと、一気に剥がすのと、どっちが痛いだろうか?」
 俺に目を向けてくる。何を考えているか分からない黄色い瞳。
 ハサミを動かしながら、少し考えて、俺は答えた。
「ゆっくり剥がす方が痛くないんじゃないか?」
「うむ」
 頷いてから。
 サキツネは大きく息を吸い込む。息を止めてから。
 ベリベリベリッ!
 両手に残ったテープを連続で引き剥がした。
「――ッッ〜!」
 両腕を捻りながら両手の指を鈎爪のように曲げ、サキツネは身をよじる。さながら奇っ怪なオブジェのような格好。歯を食い縛って不規則にくねりながら、悲鳴を呑み込んでいた。十枚以上のテープを一気に剥がしたんだ。そりゃ痛いわ。
 とはいえ、なぜ俺の答えの逆をやる?
 しばし無言のまま痛みに耐えてから、サキツネはふっと力を抜く。
「ちょっと大人しくしてろよ」
 俺は髪の毛とセーラー服の隙間にハサミを差し込み、ガムテープを切っていった。服に付いたテープはともかく、髪の毛に貼り付いたものは厄介である。その前に取れる部分は全部取ってしまいたい。
 サキツネは服に付いたテープを自分の手で毟っていた。肌に直接貼り付いたものではないので、痛みも無く取ることができる。多少布が傷むがそれは仕方ないだろう。
 ふと目を移すと――
 サキツネが引っ張ったガムテープがスカートの裾を持ち上げていた。裾が持ち上がることによって、その中身が見えるのは道理である。太股の奥に見える小さな白い生地。
「お……」
 ゴッ。
 視界が跳ねて、一回転する。鈍い衝撃とともに目の前が真っ白になり、重力が消え、平衡も無くなり、思考も止まる。一瞬とも数分とも言えない時間を挟んで、気がつくと天井が見えた。状況を理解するよりも早く、頬に鈍い痛みが湧き上がってくる。
 視線を動かすと、サキツネが左手でスカートを押さえていた。
「えっち……」
 頬を赤くして俺を睨みつつ、そう呟く。握り拳にしている右手。
 どうやらサキツネに殴られたらしい。座った状態で碌に腰が入ってないってのに、殴られた頬はかなり痛い……。身体は細いのに、意外と馬鹿力だな、こいつ。
 頬を抑えつつ起き上がり、俺は言い訳した。
「今のは事故だ……」
「お兄さん、見損ないました」
 ジト目でそんな事を言ってくる。
 反論のつもりで、俺はさらに続けた。
「あんまり文句言うとカレー食わせないぞ」
「……。カレー……」
 握っていた右手を開き、サキツネが未知の単語のように呟く。
 野菜と肉が安く売っていたので買ってきたのだ。貰い物のカレールーもあるので、今晩はカレーを作る予定である。カレーはある程度日持ちがするので、大量に作っておくと数日は料理をする必要が無くなる。もっとも、サキツネが来たから今日中に全部食われちゃうかもしれないけど。
「カレー……」
 再び呟いてから。
 サキツネはおもむろにセーラー服の裾に両手をかけた。
「やめい!」
 俺の叫びに、手を止める。
 ったく……このキツネは。大体どんな思考展開が起ったのかは想像できるけど、こいつは食い物に対する執着が尋常じゃないよな。普段一体どういう食生活してるんだ?
 裾から手を放し、サキツネが黄色い瞳を輝かせる。狐耳をぱたぱたと動かしながら、
「超特盛りお願いします」
「分かったから、さっさとガムテープ片付けるぞ」
「らじゃ」
 敬礼のような仕草。
 近くに落ちていたハサミを手に取り、サキツネが足に巻き付いていたガムテープを素早く切っていく。両足はほぼ黒いオーバーニーソックスで包まれているので、剥がす痛みはないだろう。実際、手早く剥がしている。
 あらかたテープの拘束がなくなり、手足が自由になった。
 そして、残ったのは髪の毛と尻尾に貼り付いたガムテープ。
「困った……」
 髪の毛と尻尾のテープを撫でながら、サキツネが狐耳を動かす。言葉とは対照的にあんまり困っていないように見えるのは、手足が自由に動く余裕が出たからだろう。
「一番手っ取り早いのは、毛を切っちゃう事だけど、それはやりたくないだろうから」
 こくとサキツネが頷く。
「地道に剥がすか。背中こっちに向けてくれ」
 俺の言葉にかなりの躊躇を置いてから、サキツネが背を向けてくる。癖毛の髪の毛に貼り付いたものが四本と、尻尾に貼り付いたものが六本。どっちもべったりとくっついていて簡単には剥がれそうにない。
 とりあえず、面倒臭そうな尻尾からだな。
「尻尾から剥がすぞ」
 そう告げてから、俺は狐色の毛を掴む。触った感じでは、髪質は硬い。サキツネが両手で口元を押さえ、身体を硬直させるのが分かった。想像はしていたが。他人に尻尾を触られるのは嫌なものらしい。
 俺は毛を押さえつつ、貼り付いたガムテープを少しずつ剥がしていく。ガムテープから尻尾の毛を剥がしていくと表現する方が正しいかもしれない。
「……ッ」
 テープが少し剥がされるたびに、サキツネの身体が震える。跳ねようとする尻尾を必死に動かさないようにしているようだった。それでも先端がぴくぴくと動いている。
 頭に浮かんだのは、虫歯の治療だった。ドリルが歯を削るたびに、身体を強張らせる様子。それほど仰々しいものじゃないけど、気分はそんなものだろう。
 こまごまと尻尾と粘着面を引き離していき、大体三分ほどでガムテープ一枚を剥がし終わった。抜けた毛が何本も貼り付いている。
「一本目終了、っと」
 ふっとサキツネが安堵するのが分かった。
 だが。
「あと五本あるぞ。髪の毛に四本も」
「………」
 背中に陰をまといつつ、サキツネが無言のままうなだれる。
 これ全部剥がし終わるまでは、相当神経を削るだろうな。いっそシールとか剥がす剥離スプレー使うか? って、アレは無生物相手に使うものであって、身体に掛けるようなものじゃないしな。毛が無茶苦茶になるだろうし。
 と……。
 ふと思い出して、俺は唇を舐めた。
「そういえば、ガムテープって石鹸で洗うと落ちたような……」
「うぅ」
 その台詞に、ジト目を向けてくるサキツネ。


 髪の毛や尻尾に貼り付いたガムテープは、風呂に入ってシャンプーで洗ったら、思いの外あっさりと剥がれたらしい。




 時間は午後六時過ぎ。
 切った野菜と肉を入れ、弱火で二時間ほど煮込んだカレー。特別な隠し味などはなく、標準的な味付けのものである。途中サキツネが生のタマネギを盗み食いして泣いたりもしたが、まあ無事完成した。
「おおー!」
 大皿に山盛りになったカレーライスを目の前に、サキツネが大きく見開いた目をきらきらと輝かせていた。狐耳がぱたぱたと動き、尻尾も興奮した犬のように左右に跳ねている。口の端からは漫画のように涎が流れていた。てか、犬か、お前は……。
 約五合の白飯に、適当に大量のカレーを掛けた超特盛りカレーライス。カレー屋の大食いチャレンジとかに出てきそうな代物だった。ご飯量推定千五百グラム。
 傍らには氷水の入った中ジョッキ。
 一方俺は普通のカレーライスだ。サキツネほど大食いじゃないし。
 右手でスプーンを握ったまま、サキツネは期待の眼差しで俺を凝視している。
「食っていいぞ」
「いただきます」
 俺の言葉に、両手を合わせて深々と一礼。
 そして、サキツネは怒濤の勢いでカレーを食い始めた。スプーンでご飯とカレーを一緒にすくい、口の中に放り込み、ほとんど噛まずに呑み込んでいく。ぱたぱたと跳ねる尻尾。時々思い出したように、コップの水を飲んでいた。
「大丈夫か、そんな食い方して?」
「カレーは飲み物です」
 俺の問いに、サキツネは断言してみせた。誰が言った台詞かは忘れたけど、無茶な表現だと思う。でも、ま――本人がいいなら、いいんだろ。
 無責任にそう判断し、俺は自分のカレーをスプーンですくった。

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