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第4話 追う者、追われる者 前編


 雨が降り出しそうな初秋の曇り空。天気予報では日暮れから雨と言っていた。空気の湿り具合からしても、一時間も経たぬうちに雨が降り出すだろう。
「うーん」
 日暈真美は自動販売機の前で小さく唸っていた。考え込むこと、早三分ほど。右手には財布から取り出した百五十円が握りしめられている。
 二十歳前の少女だった。年齢は十八歳と、少女というほど幼くはないが、雰囲気は無邪気な女の子そのものである。腰まで伸ばしたきれいな黒髪と、屈託のない顔立ち。白い半袖のワンピースに白いサンダルという格好で、良家のお嬢さんと言っても充分通じる出で立ちだった。
「お茶にしようかな? それともオレンジジュース……? どっちがいいかな?」
 口元を捻りながら迷う。
 父親に頼まれ庭の手入れ用の大工道具を買った帰り。ホームセンターの入り口横にある売店で、たこ焼きとクレープを買ったところだった。ここで遅めのおやつを食べてから家に帰る予定である。
「うん、お茶にしよう」
 誰へとなく頷き、真美は自動販売機の硬貨投入口に百五十円を入れた。ボタンが点灯するのを確認してから、お茶のボタンを押す。機械音が響き、取出口にお茶のペットボトルが落ちてきた。
 腰を屈め、ペットボトルを取り出す。
 緑茶のペットボトルを手に持ち、真美は振り返り――
「あ」
 動きを止めた。
 売店近くに置かれた飲食用の小さなテーブルと椅子。買い込んだ大工道具類が入った大きな紙袋が椅子に置かれている。
 そして、いつの間にか椅子に座っている小柄な少女。癖のある長い狐色の髪で、頭には狐耳が生え、腰の後ろから狐の尻尾が伸びていた。白いセーラー服に緑色のプリーツスカート、黒いオーバーニーソックス。中学生のような格好だった。
「………」
 無言のまま狐の少女が振り向いてきた。真美を見つめ、狐色の眉を持ち上げる。
 左手にたこ焼きの箱を持ち、長い楊枝で中身を食べていた。もごもごと口が動いている。十個入りのたこ焼きは残り五個となっていた。半分食べたらしい。
 たこ焼きと一緒に買ったクレープはテーブルに置いてある。そちらは無事だった。
 狐の少女が口の中のたこ焼きを飲み込む。
 お互いに見つめること数秒――
 狐の少女がぺろりと唇に付いたソースを嘗め取る。
 そして、お互いににっこりと微笑む。
 音もなく。
 真美の右手が閃いた。開いていた距離を一歩で詰め、右から左へと振り抜ける裏手刀。空気が斬られ風が唸りを上げ、長い黒髪が広がった。細い体躯とは裏腹に、比喩抜きで人体を破壊できる一撃だ。しかし、手は虚空を払う。
 狐の少女は右へと逃げている。たこ焼きとクレープを持ったまま。
(意外と素早い)
 真美は振り抜いた右手を、紙袋に伸ばす。さきほど買った定規を引き抜いた。
 ステンレス製の五十センチ定規。野外での計測などに使われるものである。家にあった定規が曲がってしまったので、新しいものを買ってきたのだ。ビニールの袋には入ってなく、むき出しである。
 逃げた狐の少女との間合いは、三メートル弱。
 狐の少女が警戒するように定規を見つめていた。真美の手に握られたそれは、それはさながら短剣だ。刃は付いていないものの、皮膚を切るには十分な硬度を持つ。
 真美は再び走った。左足で煉瓦敷きの地面を蹴り、一息に前進する。同時に狐の少女も後ろに逃げているが、それを上回る速度で接近、逆袈裟に定規を一閃させた。
「手応えあり」
 定規の角が、狐の少女の右手を浅く斬っている。
 動きを止める真美と狐の少女。お互いに五メートルは移動しただろう。
 真美は左手にお茶のペットボトルを持ったまま、右手の定規を引き寄せた。広がった黒髪が遅れて背中に落ちる。首を狙ったのだが、踏み込みは足りなかったらしい。
「………」
 狐の少女は何も言わず、右手の傷口を見つめていた。驚いたように伸びている狐耳と尻尾。赤い血が傷口から音もなく流れ落ちる。逃げ切れると思ったらしい。
「理由は知りませんけど、盗み食いはいけませんよ」
 優しく言いながら、真美は定規の角を口に含んだ。血の味がする。口から離すと、定規から血は消えていた。少量の血なら嘗め取るのが一番手早い処分方である。
 追い詰められた表情の狐の少女。
 不意に右手に持ったクレープを放り投げた。
「!」
 少女を追うか、クレープを助けるか。
 刹那の思考から真美は飛び出した。右手を開き定規を捨ててから、落下途中のクレープを優しく掴み止めた。急停止から顔を上げると、漫画のような逃げ足で狐の少女がホームセンターの入り口へと走っている。
 追いつくのは無理ではないが、荷物をそのままにはできない。
 両手に残ったクレープと緑茶。
「クレープに緑茶は合わないかな……?」
 ため息とともに振り返る。
 目を点にしている売店のおじさんが見えた。真美と目が合い、慌てて何事も無かったように売店内の片付けを始める。驚かせてしまったらしい。
 プラスチックの椅子を見ると、工具類の入った紙袋が置いてあった。右手のクレープを左手に持ち替え、地面に落ちたステンレス定規を拾い上げる。
「盗み食いはいけないよね、うん」
 口の中に残る血の味を確認しながら、真美は誰へとなく語りかけた。


 くー。
 と、腹の虫が鳴いている。
 尻尾を揺らしながら、サキツネは当てもなく夕刻の住宅街を歩いていた。狐耳を垂らしたまま、空腹を訴えるお腹を撫でる。だが、それで空腹が紛れるわけでもない。
 今にも雨が降り出しそうな曇り空。夏の暑さが残る空気は生暖かい。
「お腹空いた……」
 サキツネはポケットから取り出した財布を覗いた。
 五十七円。
 ため息をつき、狐耳と尻尾を垂らしてから財布をしまう。
 手元にある小銭が、現在の全財産だった。ジュース一本買えない金額。気まぐれに徒歩旅行に出掛けて、迷子になって早三日目。今日は朝から何も食べていない。空腹は限界に近づいている。
 なので、テーブルの上に無防備に置いてあったたこ焼きを食べたとしても、それは空腹が悪いのであって、自分は一切悪くない。よって全面的に無罪。
 絆創膏を貼った右手を見ながら、サキツネはそう自己完結した。
「何だろ、さっきの女?」
 どこかのお嬢さんっぽい格好だったが、手刀の速度や体捌き、重心移動、ステンレス定規を振った太刀筋――どれを取っても戦闘技能者のソレだった。しかも、素手で人を殺すような、そういう無茶な訓練受けているタイプの。
 とっ。
 背後から足音が聞こえた。本当に微かな音。
 サキツネはそちらへと視線を動かし……
 真っ先に目に入ったのは銀色の板だった。長さ三十センチほどの薄い金属の板で、幅は三センチほど。片面にはギザギザの歯がついている。板の先には、丸い木の柄が斜めに取り付けてあった。枝切り用鋸である。
 鋸を持つのは、さきほどの黒髪の女。
 銀光が閃く。
「!」
 右腕の激痛を無視しながら、サキツネは身体の前後を入れ替え跳び退いていた。
 目の前にさっきの女が立っている。
 長い黒髪と白いワンピース姿で、無邪気な微笑みを浮かべていた。殺意も敵意もない笑顔が、逆に不気味である。右手にはサキツネの腕を抉った鋸を持ち、左手にはホームセンターの印が入った大きな紙袋をぶら下げていた。間違いない。本人である。
「ようやく見つけましたよ、狐さん。ちょっと手間取りましたけど」
 友達にでも接するように、女が話しかけてきた。
 右手に持った鋸を持ち上げ、ノコ歯についた血と小さな肉片を口に含む。額の上あたりを見上げながら、味わうように口を動かすこと数秒。ごくりと喉が動く。
 口から離したノコ歯はきれいになっていた。
 鋸を下ろし、女は嬉しそうに笑う。
「やっぱり、さっきの狐さんですね。定規に付いた血と同じ味がしますし」
 サキツネは一歩下がった。背筋に寒いものが走る。
 右腕から流れ落ちる血。前腕の傷口から、手首を通り、手の甲を通り、人差し指と中指から地面に落ちていた。地面に黒い染みができている。
 匂いで追ってきたのだろう。さらに血の味で本人確認。人間業とは思えないが。
 迷いなく人を鋸で切れる精神も、人間のものではない。
「さて、狐さん。盗み食いはいけませんよ? 立派な窃盗罪ですからね。それに、食い物の恨みは怖ろしいと昔からいいますから、覚悟して下さい。ふふ……」
 サキツネは後ろ手に回した左手に、こっそりとコンバットナイフを用意した。どこからどのように取り出したかは、乙女の秘密。
「どうする気だ?」
 問いかけへの返答は。
 痛みだった。
「ッ――」
 右太股に焼けるような衝撃。視線を下ろすと、大きな釘が一本刺さっていた。N150の鉄丸釘。いわゆる五寸釘である。何かしらの方法で跳ばしたらしい。
 視線を戻すと、目の前に女。黒髪が大きく広がっている。既に相手の射程内。
「お仕置きです」
 涼しげな笑顔のまま、枝切り鋸を横一文字に振り抜いた。
 サキツネは左手を振り上げる。閃く鋼鉄製の刃を、逆手に握り締めたコンバットナイフで防ぐように。普通に考えれば、市販の枝切り鋸よりも軍用ナイフの方が頑丈である。
 ガギギガガギギギ……!
 擬音にすればこんな感じだろう。
 振り抜かれた無傷の鋸、分厚い刃を中程まで削り取られたナイフ。破片が無惨にアスファルトに散らばる。それなりに高いナイフだったが、もう使えない。
「うぁ」
 返す刃を再び跳び退って躱しながら、サキツネはナイフを投げつけた。回転しながら跳んでいく壊れた刃物。多少の牽制にはなるだろう。
 女は鋸の背で、ナイフを弾いた。
 それで僅かな隙ができる。
 サキツネは両手を振った。どこからともなく現れた缶のような発煙弾が五発、地面にばらまかれる。次の瞬間、破裂音とともに大量の白煙が吹き出され、辺りを白く染めた。これで一時的に視界は効かなくなるだろう。
「目眩ましですか? 残念ですけど、逃がしませんよ」
 聞こえてくる声。怯む様子すらない。
 サキツネは女に背を向け走り出した。太股に刺さった釘を引き抜き、投げ捨てる。自分がいた空間を数本の五寸釘が撃ち抜いていくのが気配で分かった。
 ぽつぽつと、雨が降り始める。

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