Index Top 目が覚めたらキツネ

第1節 いつもと違う朝


「シンイチさん、シンイチさん……」
 声をかけられ、慎一は目を開けた。
 狐耳を動かし、尻尾を跳ねさせる。自分が狐神の女になったことを確認。帰ってきてから、目覚めの日課だった。奇跡的に元に戻っているなどない。
 寝返りを打ち、目の前に浮かぶ妖精の女の子を見つめる。
 後ろの時計は、七時時二十五分を示していた。目覚ましが鳴る五分前である。
「誰だっけ?」
「カルミアですよぉ……」
 カルミアは胸に手を当てて答えた。
 慎一は寝転がったまま頷き、身体を起こす。癖のついた髪を指ですき、ぱたぱたと尻尾を動かした。髪と尻尾に寝癖がついている。
「カルミア、おはよう」
 目をこすりながら挨拶した。寝起きの悪さは慣れない。以前なら起床後五秒で意識が覚醒したのだが、今は時間がかかる。
「おはようございます……」
「元気なさそうだな。寝る前は元気だったのに」
 力なく浮いているカルミア。両手も下ろしていて、昨日ほど元気ではない。ナイトテーブルの上の紙箱で、ハンカチにくるまって寝ていた。寝不足ではないだろう。
「ゼンマイが切れそうです。巻いてください」
 カルミアは首から下げたゼンマイを差し出してくる。
 慎一はゼンマイを受け取り、手の中で動かした。金色のゼンマイ。
「ゼンマイが切れると動けなくなるのか?」
「はい。動けなくなっちゃいます。でも、もう一度巻き直せば、ちゃんと動けるようになりますよ……。お願いします、早く巻いて下さい」
 ふらふらと落ちかけたところを、慎一の左手が受け止めた。
「何回巻けばいい?」
「十回くらいです……。巻きすぎても大変です」
「分かった」
 カルミアを左手に寝かせて、指を曲げて固定する。安心したように力を抜いていた。背中のネジ穴にゼンマイを刺し、キリキリと十回巻く。
 ゼンマイを抜くと。
 羽を広げ、カルミアは飛び上がった。弱々しい雰囲気はもう残っていない。背筋を伸ばして、丁寧にお辞儀をする。
「ありがとうございます。元気になりました」
「よかった」
 ゼンマイを返し、慎一はナイトテーブルに手を伸ばした。
 カルミアが寝ていた紙の小箱。お菓子の入れ物。布団代わりのハンカチが二枚。端が三ヶ所丸く欠けている。
「寝ぼけて齧ったな?」
「はい」
 慎一の指摘に、気まずそうに頷くカルミア。
 左手を伸ばすとそこに降りて腰を下ろす。
 カルミアを手に乗せたまま、慎一はサンダルを履いて窓辺に移動した。右手でカーテンと窓を開ける。部屋に流れ込んでくる朝の空気。ほどよい涼しさで、よい目覚ましだ。深呼吸をしながら背伸びをし、狐耳と尻尾をぴんと伸ばす。
「今日もいい朝だ。……ん?」
 腕を下ろし、慎一は尻尾を曲げた。いつもと同じ朝。だが、いつもと違う。
 手の平から飛び上がり、カルミアが顔を覗き込ん出来た。
「どうしたんですか?」
「誰もいない」
 慎一は窓の外に視線を巡らせる。左から右、右から左、左から右、また右から左。視界の隅々まで凝視して、表情を険しくした。意識は覚醒している。
「誰がいないんですか?」
「人外」
 カルミアの問いに、慎一は答えた。狐耳を立てて、
「六級位の神や妖――形も持たない人外が見えない。一日中どこでも見かけるのに、今は一人も見えない。気配も匂いもない」
 六級位の人外。決まった形もなく、近づいても触っても何もしてこない。虫や小動物のようなものだ。普通の人間には見えないだけで、どこにでもいる。時々部屋の中にも迷い込んでくることもあった。
 生物の気配はあるのに、人外の気配がない。
「何だ? こんなこと初めてだぞ……。何があったんだ?」
 まどを閉めてタンスの前に移り、慎一はパジャマの上着を脱いだ。
 カルミアが顔を赤くして目を逸らす。
 胸は灰色のスポーツブラに包まれていた。寝る時はブラジャーを着けている。和室に移り、タンスを開けてスポーツ用タンクトップと半袖のカジュアルシャツを取る。タンクトップの上からシャツを着て、ボタンを留めた。
 脱いだものを畳んで、タンス脇の洗濯籠に入れる。後日まとめて洗濯。
「シンイチさん……人前で着替えないでくださいよぉ」
 恥ずかしそうに背を向けるカルミア。
 慎一はパジャマのズボンに手をかけた。
「女同士だから平気だろ?」
 ズボンを脱ぎ、籠に入れる。下は男物のトランクス。まだショーツを穿く勇気はない。取り出したズボンを穿き、尻尾抜きの術で尻尾を通した。
 尻尾を動かしてからベルトを締め、裾を払って着替えは終わり。ブラシを手に取り、髪と尻尾を梳いていく。のんびりはしていられない。
「事情は飲み込めないけど」
 慎一は電話機を取り、実家の番号を押した。
 受話器を耳に当てて一分。通じない。
 親戚の家。他の守護十家、知人の退魔師――心当たりのある場所にかけてみるが、どこにもつながらない。メールもつながらないだろう。
「通信は駄目、と」
 状況を確認してから、慎一は押入れを開けた。紺色の鞘袋を取り出し、口を開けて刀を抜き出す。樫の鞘に納められた、鐔のない刀。滑らかな動作で鞘から抜き放った。
 日暈家制作の破魔刀で、銘は時雨。刃渡り二尺四寸。反りは小さく、刃は分厚い。鉈のような刃。鎬筋の後ろに血抜き溝が彫られている。
 刀身を鞘に納め、慎一はカルミアを見た。
「今の状況に心当たりない?」
「何でですか?」
 頬を染めたまま首を傾げるカルミアに、続けて訊く。
「僕がカルミアを動かした翌朝、人外が消えた。子供でも怪しいと思うぞ」
「そうですね――」
 窓の外を眺めてから、申し訳なさそうに答える。
「すみません。心当たりはないです。昔のことはやっぱり思い出せません」
 カルミアは首を左右に振った。緑色の髪が揺れる。
 嘘を言ってるようには見えない。一応事実として受け取っておく。本当に覚えていないのだろう。ただし、意図的に記憶が消されている可能性もある。
「……木野崎に訊くか。でも、あいつどこに住んでるか知らないんだよな」
 アパートに一人暮らしであるとは聞いていた。しかし、住所は知らない。本人は言わなかったし、訊くこともなかった。
「大学に行ってみるか」
「わたしもついて行っていいですか?」
 訊いてくるカルミアに、慎一は告げる。
「嫌と言っても連れて行く。その前に朝飯だ」
「はい」

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