Index Top 我が名は絶望――

第3節 博士の憂鬱


 部屋は整然としている。
 だが、煩雑ともしていた。
 つまり、膨大な実験器具やら研究材料やら分厚い本やら書類の束やらが、あちこちに置かれている。一見すると無秩序に散らかっているように見えるが、実は目的のものが簡単に取れるように置いてあるのだ。
 どちらにしろ、色々な物が置かれた研究室の片隅。
「十三時三十分……」
 愛用の椅子に座ったまま、フェレンゼは壁にかけられた時計を眺めていた。天井付近に浮かぶ魔法の明かりが照らす研究室には、自分一人しかいない。何を言っても、誰も聞いてはいないだろう。
「遅刻ですね。丸一日……。彼らしいといえば彼らしいですが。一体、どこで油を売っているんですか。こうなるなら、鯖を読んでおくべきでしたね」
 愚痴を言いながら、机の上に置かれた紙の束を手に取る。
 黄色く変色し、あちこちが毀れるように切れた紙。一見しただけで、古い代物だと知れる。紙に書かれているのは、見たこともない文字だった。文字と言うよりは記号に近い。平たく言えば、暗号である。
 紙束を引き出しにしまい、フェレンゼは真新しい白い紙と封筒を取り出した。鉛筆を掴み、取り出した紙に手早く地図を書き込んでいく。最後に、目的地を示す目印と、伝えるべき一文を書き込んでから、封筒に入れて封をした。
「このまま、悠長に待っているわけにもいきませんし」
 封筒を持ったまま、フェレンゼは椅子から立ち上がった。色々なものが置いてある研究室を横切り、棚の前で足を止める。
 棚には数種類の携帯用武器が並んでいた。当たり前だが、一般の科学者がこのようなものを持つことはない。しかし、自分のような科学者は、時として武器を使わなければならない時がある。
「背に腹は代えられませんね。彼抜きでは多少危険ですが、僕一人で行きますか」
 言っていることの物騒な内容とは裏腹に、その声は至って涼しげだった。口調だけならば、近所に買い物にでも出かけるような感じである。
 封筒を近くに置いて、フェレンゼは並んでいる武器の手に取った。
 投げナイフが十本、小型の炸薬弾十発、閃光弾十発、折りたたみ式の杖一本、細身の短剣が二本。近くに掛けてあった、丈の長い青色の防護服を身にまとうと、選んだ武器を服の内側に収める。これで準備はできた。
 置いてあった封筒を手に取り、研究室を出る。
 足音を立てずに廊下を通り過ぎ、階段を二階分降りた。一階の廊下を歩くと、そこはちょっとした広間になっている。広間には発掘品の類が展示してあり、壁には色々な資料がかけられていた。一般向けの小博物館のようなものだが、やって来る人は少ない。
 建物を出る前に、フェレンゼは受付に向かう。
 受付の席に座っていたのは、栗色の髪の女性だった。うつらうつらと、眠そうに身体を揺らしている。誰も来なくて、暇なのだろう。
「クキィ君」
「あ。フェレンゼ博士……」
 肩を跳ねさせ、クキィは顔を向けてきた。
「どこか出かけるんですか?」
 その目は、フェレンゼが着ている青い服に向けられている。出かける時は、いつもこの服を着ているので、今回もどこかに出かけるのだと思ったのだろう。
「ええ――」
 フェレンゼは答えた。口調は、いつもと変わらない。
「ちょっと面倒なことがありましてね。今からそれを片つけに行くのですが、多少手間がかかるので、一週間ほど帰って来られないかもしれません」
「そうですか」
 目をこすりながら、クキィは曖昧に頷く。幸いにも行き先は訊いてこなかった。行き先を訊かれても適当にごまかすつもりだったが。行き先を教えるわけにはいかない。
 時間がないので、フェレンゼは話を進めた。
「ところで、君にひとつ頼みがあるんですが」
「はい?」
 意外そうに眉を動かすクキィ。
 フェレンゼは持っていた封筒を、受付台の上に置いた。
「しばらくしたら、ディスペアという名の黒衣をまとった銀髪の青年が僕を訪ねてくると思います。その時に、この封筒を彼に渡し下さい。目立つ容姿をしているので、一目で分かると思います」
「はい……。分かりました」
 封筒を懐に収めながら、クキィは頷いた。しかし、その表情には疑問の色が浮かんでいる。さすがに何かが不自然と感じたのだろう。
 とはいえ、フェレンゼはそれについての説明をする気はなかった。説明すれば、とんでもない騒ぎになってしまう。他人を巻き込むわけにはいかない。
 クキィが何か訊いてくる前に、入り口に向かって足を進める。
(もしかしたら、生きて帰って来られないかもしれませんね)
 心の中で呟き、フェレンゼは自嘲するような微笑を浮かべた。
 だが、自分は行かなければいけない。

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