Index Top 第2話 歩く練習

後編 式操りの術


 初馬は腕組みを解いてから、右手で顎を撫でた。
「いきなり歩けと言うのも、無茶な気がする」
「当たり前だろ」
 率直な感想に、一ノ葉が率直な意見を返す。
 尻尾を持ち上げてから、両腕を地面についた。足を引きながら上体を持ち上げ、その場に腰を下ろす。最初の恰好。以前なら起き上がることもできなかった。これは十分に成長と言えるだろう。
「まったく。もう少し考えてから行動しろ」
 座ったまま、睨み上げてくる一ノ葉。
「そもそもワシが人間の姿でいることに、何か必要性でもあるというのか? 誰かに見せるわけでもあるまい。ワシは最初から狐なんだぞ?」
「うん。ないな……」
 初馬は考えることもなく頷いた。人間の姿になった一ノ葉を式神として使うことは考えていない。当然だが、本来の狐の姿が最も力を発揮できるのだ。
 一ノ葉が目付きを険しくする。
「ただの思い付きか?」
「うむ……。お前を買い物にでも連れて行ってやろうかと考えてたんだが。キツネの姿のまま人前に連れ出すわけにもいかないし、ずっと家に籠もってるのも退屈だろ」
 視線を逸らして初馬は答えた。
 実家の式神は仕事の無い時、人間に化けて遊びに出掛けたりしている。しかし、一ノ葉は自分で化けられないし、人間の身体の動かし方も知らないので、自由に外には出歩けない。ずっと家に閉じこもっているのも身体に悪い。
「何を企んでおる?」
 狐色の眉毛を傾け、一ノ葉が胡乱げな眼差しを向けてくる。ぴんと立てられた狐耳と、リズムを取るように左右に揺れる尻尾。一種の威嚇だった。
 初馬は頭を掻きながら、苦笑する。
「信用ないなぁ、俺……」
「信用も何も――貴様がどうやってワシを式神したのか、まさか覚えていないわけではあるまい? 一週間も経っていないのだからな」
 一ノ葉が不敵に笑った。挑発するような獰猛な表情。
 あの時、本気で戦っていたらもう少し素直になっていただろう。しかし、冗談のような罠にはまってあっさりと屈服してしまった。戦いはコミュニケーションであるという、誰かの言葉を思い出す。
「分かったら、さっさと変化を解け」
 一ノ葉の言葉に、初馬はぽりぽりと頬を掻いた。
 ふと脳裏に閃いた思いつきにぽんと手を打つ。
「そうだ、アレやってみよう」
「……アレって何だ?」
 囁くような問い。
 初馬は数歩下がって、両手を向かい合わせた。両手で印を結んでいく。教えられてはいたものの、今まで一度も使う機会のなかった術。
「だから、貴様は何をやろうとしている!」
 声を荒げる一ノ葉。両手を地面に突いて起き上がろうとするものの、座った常態から立ち上がる方法が分からない。膝を動かしたり腰を持ち上げたり。
「大丈夫だ。痛くはないから」
「ええい、思いつきで変なコトするのは止めろ!」
 一ノ葉が声を上げた時には、術が完成していた。
 右手の中指と人差し指を伸ばした刀印を一ノ葉に向け、
「式操りの術!」
「ッ……」
 肩が跳ねる。
 驚いたように自分の身体を見下ろす一ノ葉。
「式操りの術……?」
 狼狽えた声。
 自分の使役する式神との感覚共有を行い、自分の身体を動かすような感覚で式神を自在に操る術。共有の度合いによって、使い道が色々変わる。知っていても意外と使わない術でもあるのだが。
「何をするつもりだ?」
 探るように眼を細める一ノ葉に対し。
 初馬は人差し指を立てた。
「いちいち俺が教えるより、実際に歩いてみる方が手っ取り早いからな。習うよりも慣れろとも言うし。それに単純に俺もこの術に興味がある」
 告げてから右手で印を結ぶ。意識を集中させると、一ノ葉の感覚が流れ込んできた。それほど強い共有ではないが、身体を動かすことはできるだろう。
 一ノ葉がその場に両手を突いた。
「ん?」
 眉根を寄せる。自分の意思による動きではない。初馬が式操りの術を通して、一ノ葉の身体を操っていた。手を突いた感触が伝わってくる。予想はしていたが、他人の感覚は現実味のないものだった。
「下手に逆らうと転ぶから、大人しくしてろよ」
 初馬は一ノ葉を見つめた。
 両手を突いて膝を折り、地面に足裏を付け、そのまま膝と腰を伸ばして立ち上がる。言われた通り抵抗はしない。転ぶのは嫌だろう。
「なるほどな」
 一ノ葉が頷く。不満そうに。
 勝手に歩き出す足。右足と左足を交互に動かし、両手腕を振り、前へと進む。左右に揺れる尻尾。それは今までとは違う慣れた動きだった。
 足運びの感覚と、尻尾の左右に揺れる感覚、腕を振る感覚が伝わってくる。
 六歩進んで、初馬の前までたどり着き、一ノ葉は足を止めた。両手を下ろした緩い気を付けの姿勢。自分の意思ではないが。
「どうだ、自分で歩く感覚ってのは? 少しは理解できたか?」
「まあな」
 一ノ葉は答えた。
「実際に動いてみると分かる。重心の運びは、ワシが思っていた以上に難しい。普段気楽に歩いている人間も、かなり複雑な動作をしているのだな」
 感心したように足を見つめてくる。
 人間の足運びや重心移動は、それだけで論文が書けるほどの複雑さだ。人型ロボットが歩けるようになるまで数十年の月日を要したのは、有名な話である。現在でも軽く走ったり、階段を昇ったりすることしか出来ていない。
 初馬は印を解かずに左手を差し出した。
「このままアパートまで帰るぞ」
「いい加減、変化を解け。あと勝手に人の身体動かすな……」
 半眼で呻く一ノ葉。他人に身体を動かされるのは気にくわないだろう。一ノ葉は他人に干渉されるのを嫌う。ましてや身体を支配されるのは、もっと嫌だろう。
 しかし、初馬は気にせず言った。
「アパートまでは歩いて十分くらい。お前は物覚えが早いから、歩くって感覚も理解できるだろうし、俺も女の子と手を繋いで帰りたいと思ってたし」
 一ノ葉の右手が上がり、初馬の左手に重なる。
 その手を握り締め、初馬は右手の印を解いた。直接触れて居れば印を結んでいなくとも動かすことができる。芝生に張った結界を解いてから、並んで歩き出した。
「晩飯は何にするかなぁ」
 そんなことを呟きながら公園を横切り、道路へと出る。
 日没前の薄暗い道。人のいなくなる時間には早いが、幸い人はいない。一ノ葉にかけた隠れ蓑の術はまだ有効なので、見つかる心配はない。
 住宅街の道を歩きながら、初馬はほんわかと笑った。
「あぁ、幸せ――」
 左手でしっかりと一ノ葉の手を握り締める。暖かな人のぬくもりと、細く柔らかい女の子の感触。足の動きに合わせて前後に動いていた。
 呆れたような一ノ葉の呟き。
「女と一緒に歩くだけで幸せになれるとは、単純な男だな」
「可愛い女の子と手を繋ぎながら気ままに帰る――若い男として、これ以上の幸せがあるとでもいうのか? 今感動で泣きそうだぞ、俺」
 初馬は真顔で言い切った。可愛い女の子と手を繋いで帰るという漫画のような一コマ。このような体験を出来る人間は、それこそ一握りだろう。
「貴様は……」
 目蓋と尻尾を下ろし、明らかに引いている一ノ葉。
 初馬はこほんと咳払いをして、
「それより、尻尾って変な感覚なんだな」
 術式を介して一ノ葉から流れ込んでくる感覚。足を進めるたびに左右に揺れる尻尾と、狐色の毛に覆われた芯、根本に感じる尻尾の動き。
 どれも現実味のないものだが、奇妙なものである。
 一ノ葉が小さく鼻を鳴らした。狐耳が跳ねる。
「ワシにとっては人間の感覚全般が変なものだがな。まったく……。早く変化を解いて元の姿に戻せ。狐の姿が一番落ち着くのに」
「それに胸も意外と邪魔なんだな」
 初馬の呟きとともに、一ノ葉の左手が自分の胸を撫でる。そこはかとなくイヤらしい動き。一ノ葉がそうしているのではなく、初馬が動かしているのだが。
 現実感がないものの、手の感覚も伝わってくる。
 手の平に感じる生地の手触りと、柔らかく張りのある膨らみ。歩くたびに微かに揺れていた。胸に重りを付けているという表現は、あながち間違いではないだろう。
「……喉笛噛み千切っていいか?」
 犬歯を剥いて睨んでくる一ノ葉。
 左手が降りる。さすがにやり過ぎたらしい。
「ははは」
 初馬は明後日の方に向かって笑ってから、話題を変えた。
「しかし、式操りの術も成功してよかった。失敗することも覚悟してたんだけど、予想よりも上手くいったし、これなら色々と面白いことも出来そうだし」
「何を企んでおる?」
 一ノ葉が眉を寄せる。他人の身体を自由に操ること。その気になれば、色々なことができる。一ノ葉にとってそれはぞっとしない。
 初馬は答えず、別のことを言った。
「晩飯何にするかな?」
「だから、何を企んでおる!」
 一ノ葉が声を荒げた。
「秘密、秘密。あとそろそろいいかな?」
 初馬は頷いてから、左手を放した。
「とりあえず、解除」
「ッ!」
 操作を解除され、足をもつれさせる一ノ葉。狐耳がぴんと立ち、尻尾が伸びる。多少であれ歩く感覚を理解したためか、いきなり倒れることはなかった。
 しかし、そのまま歩くことも出来ず、慌てて初馬の左腕にしがみつく。
「いきなり何をする! 転ぶところだったぞ」
「この方がいい」
 左腕に掛かる一ノ葉の重さを味わいながら、初馬は答えた。手を握って歩くよりも、腕を組んで歩く方が嬉しい。これは個人の好みだろうが。
 諦めの表情で歩きながら、一ノ葉が呻く。
「貴様は……つくづくアホだな」

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