Index Top 第2話 歩く練習

中編 直立二足歩行


 差し出された右手を、一ノ葉が掴む。
 色白で細い手を、初馬はしっかりと握り返した。
「まずは、立つことから始めるぞ」
「あ、待て」
 制止も聞かずに、一ノ葉の腕を引き上げる。腰が持ち上がったところで、素早く両手を腋の下に差し入れた。そのまま、腰を入れて身体を持ち上げる。
 一ノ葉が両足で直立していた。
「は、放すなよ……」
 震える足に力を入れながら初馬の肩を掴み、引きつった声音で言ってくる。怯えたように下げられた尻尾。焦げ茶の瞳と狐耳を不安げに動かしていた。
 両手に掛かる身体の重さに、初馬は口端を持ち上げる。
「どうだ? 初めて二本足で立った感想は」
「……分からぬ。視線が高くなって気持ち悪い。二本足で立つというのは、思いの外大変なのだな。今まで二本足で立つなんて考えたこともなかったし、足が震えて倒れそうだ。絶対に放すなよ……!」
 泣きそうな顔で睨んでくる一ノ葉。不安を吐き出すようにまくし立てていた。初めてでまともに立てるわけもない。初馬が手を放せば、倒れるだろう。
 二度ほど首を縦に動かし、初馬は呟いた。
「でも、そう言われると放したくなるのが、俺の性格」
「って!」
 一ノ葉が眼を丸くする。
 初馬は一ノ葉から手を放し、肩を掴んでいた手を振り解いていた。
「待て待て、待て……うあ、ああ……!」
 両手と尻尾を振り回しながら慌てる一ノ葉。支えを失い身体が傾く。反射的に傾いた先へと足を踏み出すが、逆に踏み出しすぎて逆方向へと傾いた。
「おお、お……?」
 口から漏れる気の抜けた声。重心を立て直そうとするものの、平衡感覚もままならない。一歩飛び跳ねてから、膝が折れる。ぴんと伸びる尻尾。
「ほい」
 両手を差し出し、初馬は倒れそうな身体を掴んだ。
 慌ててしがみついてくる一ノ葉。両腕で初馬に抱きついたまま、額に怒りのマークを浮かべている。普通は怒るだろう。
「……貴様は何を考えているんだ? ワシをからかって面白いとでもいうのか!」
「うん」
 初馬は即答した。
 左手で一ノ葉を抱きかかえたまま、右手で頭を撫でる。
「お前は反応が面白いから、からかい甲斐があるんだよ。可愛い女の子にイタズラしたいというのは、男の本能であるからして、どうにも自制できなくて」
「貴様はぁ……」
 口を震わせながら睨んでくる一ノ葉。
 この反応が面白く、ついつい意地悪してしまうのだ。狐色の髪を指で梳きながら、初馬はほんわかとした気持ちで頷いた。
「子供か、子供なのか……ひッ!」
 言いかけた一ノ葉の口が止まる。
 初馬の右手が狐耳を摘んでいた。髪の毛とは違う柔らかな獣毛に覆われた、大きめの三角耳。外側が狐色で内側が白、先端が黒い。
「っ……ぁ……は……」
 耳を弄る指の動きに合わせて、ぱくぱくと一ノ葉の口が動く。震える舌先、喉から漏れるか細い呼吸、引きつったように曲がる尻尾。
 二十秒ほど狐耳を楽しんでから、手を放した。にへらと笑いつつ、
「あー、もう。癖になるなぁ、この手触りは」
「ッ、癖になるな!」
 左手で初馬に掴まったまま、右手で頬を引っ張る一ノ葉。上がった呼吸と、紅潮した頬。膝が笑っていて、腕にも力が入っていない。
 初馬は一ノ葉の頭を撫でつつ、
「相変わらず敏感なヤツだな。要望があれば、いつでも可愛がってやるのに」
「セクハラも止めろ!」
 犬歯を見せて威嚇しながら、一ノ葉が頬を摘む指に力を入れている。平静を装っているものの、爪を立てているためさすがに痛い。
 初馬は腕を振りほどいて、一歩後ろに下がった。一ノ葉の両二の腕を掴む。細いながらも引き締まった筋肉が詰まっている。
「さーて、緊張も解けたところだし、歩く練習始めるか」
「絶対本気だっただろ!」
 初馬の両腕を掴みながら、一ノ葉が怒りの声を上げた。
 実のところ、このまま押し倒してしまってもいいかな? とは思ったが、さすがに当初の目的から外れてしまうので自重することにする。
「じゃ、まずは足踏みから。俺の真似をすればいい」
 マイペースに言いながら、初馬は右足を上げて、下ろした。続けて左足を上げて、下ろす。その動作を繰り返し、その場で足踏みを始めた。
 釣られるように、一ノ葉も足踏みを始める。
「うぅ、難しい……」
 喉から漏れる呻き。爪先と踵を少しだけ持ち上げる、頼りない動かし方。片足を上げるたびにバランスが崩れ、初馬の腕に重さが掛かった。
 ワンピースの裾と狐色の髪が不安定に揺れ、尻尾が上下に動いている。
 立つのでさえ無理なのに、足踏みはきついだろう。
 それでも初馬は元気よく声を上げた。
「もう少し足を高くー。1、2、1、2」
「イち、にィ、いチ、にぃ」
 かけ声に釣られて数字を数える一ノ葉。怯えたような擦れ声ながらも、足が徐々に上がっていく。最初は五センチくらいだった高さが、十センチを越えていた。
「その調子その調子」
 初馬は励ましの声を掛ける。
 元々一ノ葉の身体能力は非常に高く、適応も早い。
 そのまま一分、二分と続けるたびに、不安定だった足踏みも形になってきた。最初の頃は足を上げるたびに左右に揺れていた身体も、しだいに安定してくる。
 五分ほども続けると、足踏みも普通の形になっていた。
 初馬は右手を持ち上げ、人差し指を立てる。
「じゃ、このまま歩いてみるぞ」
「待て、待て……! もう少し練習させろ」
 必死に上腕を掴みながら、一ノ葉が反駁してきた。ぴんと立つ狐耳と尻尾。まだ足踏みを出来るようになっただけだ。歩くのは早いだろう。
「お前なら大丈夫だ」
 しかし、初馬は気にせず後ろに下がる。
 まだ足踏みで精一杯の状況で、腕を引き戻すという動作ができない。一ノ葉の身体は引っ張られるままに、前へと傾いた。
「と、っとぉ!」
 咄嗟に右足を突き出し倒れるのを防ぐ。
「やれば出来るじゃないか」
「待てと言ってるだろうに! っお、ととと」
 初馬は構わず後ろに歩いていた。
 両腕を引っ張られて、半ば倒れるように前に進んでいく一ノ葉。視線が激しく動き回り、狐耳があちこちに向いていた。必死に周囲の状況を確認しようとしている。
 不安げに動く尻尾。狐色の髪とワンピースの裾が揺れていた。
「ええい、止まれ!」
 初馬を睨み、声を上げる。
 しかし、初馬は涼しげに言い放った。
「大丈夫だろ? 一応歩けてるし」
 千鳥足めいた動きながらも、一ノ葉は歩いている。引っ張られていると言っても過言ではないものの、前へと進んでいるのは事実だった。
「というわけで、とりあえず自力で歩いてみてくれ」
 言うなり、初馬は手を放して数歩後退った。
 支えを失い、眼を見開く一ノ葉。ぴんと立った尻尾と狐耳。
「ま、待て待て、待って……。お、あああっ」
 ばたばたと腕を振り回して、平衡が崩れる。身体が前へと傾いていき、慌ててそちらへと足を踏み出した。この動きはさきほどと同じ。
「……うぐぐ」
 しかし、今度はバランスを崩すことなく踏みとどまった。左手を頭上に振り上げ、右手を斜め後ろに向けて、尻尾を左後ろへと伸ばした姿勢。かなり滑稽な姿。
「ぷ」
「そこ、笑うな!」
 思わず吹き出した初馬に、怒声が飛んでくる。
「すまんすまん」
 謝るものの、一ノ葉の注意は既に自分に戻っていた。
「よし、落ち着けワシ。このまま気を付けの姿勢に――」
 両腕をゆっくり脇へと下ろしながら、尻尾も下ろしていく。奇妙な体操をしているようにも見えるが、本人は至って大真面目なのだろう。
 両足が並び、両手が下ろされる。尻尾も定位置へと戻った。
 落ち着いたようなため息が吐き出される。
 パチパチ、と。
 初馬は思わず拍手をしていた。
「おー、上出来。じゃ、歩いてみようか」
「言われるまでもない!」
 気丈に言い捨ててから、一ノ葉は左足を前に踏み出した。左足を持ち上げながら重心を前方へと移動させつつ、五十センチほど前に足を下ろし倒れるのを防ぐ。人間が無意識下で行っている極めて複雑な動作。
 続いて右足を軽く後ろに蹴り込みながら、再び重心を前に移動させる。
「あ……」
 一ノ葉の顔に浮かぶ当惑。蹴り込みが強すぎたらしい。対処できない速度で重心が前へと移動していく。人間なら咄嗟に歩幅で修正するのだが、そうはいかない。
 何とか右足を踏み出してみるものの、蹴り込みの勢いを殺すには至らない。すがるような眼差しを向けてくる一ノ葉。泣き笑いのような顔。
「ふべ……!」
 そして、顔面から芝生に突っ込んだ。
 両手を伸ばし、受け身も取れずうつ伏せに倒れる。
 ぴんと伸ばされた尻尾。ふわりと跳ねたワンピースの裾が、尻尾をすり抜け背中まで捲れていた。太股からショーツ、尻尾の付け根、後ろ腰まで丸見えになっている。
 三秒ほどしてくたりと萎れる尻尾。
 初馬は両腕を組み、沈痛な面持ちでかぶりを振った。
「痛そうだ」
「痛いに決まってるだろうが!」
 顔を跳ね上げ、一ノ葉が叫んでくる。

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