Index Top 第1話 終わり、そして始まる

第2章 俺は誰だ?


「何者って……」
 リクトは肩を落とした。質問の意図が読めない。
 カツ、と踵で床を叩き、オルワージュは身体の前後を入れ替えた。黒髪が跳ねる。芝居がかった動きだった。大型の劇場で行われるオペラのような。
 眼鏡に指を添え、目を向けてくる。
「リクト・アーシィ。十九歳。ウエスト大学二回生。父はソーラ、母はカイネ、妹はヤマニ。住所は南15番サンタクラス地区オーラン23−12−4――。これが君の情報だね?」
「え、ええ……」
 身体を貫く視線に気圧されつつ、肯定する。
 間違ってはいない。それがリクトの家族であり住所である。仮に違うと言ったら他の情報まで大量に並べられる確信があった。
「ただ、不思議な事に君は存在しないのだよ」
「意味が、分からないんですけど……」
 眉を寄せ、訊く。
 オルワージュが腕を振った。手品のように右手の中に現れるバインダー。クリップには二十枚ほどの紙が挟まれている。
「学生所や手帳から君の個人情報はあらかた調べ上げた。メモ帳やノートパソコン、携帯タブレットなどからね。もしかしたら産業スパイだっからもしれないからね。そして、奇妙な結果になった」
 顎に手を添え、首を捻る。
「君は存在しないのだよ」
 その唇から出てきた言葉はさきほどと同じだった。
 リクトが存在しない。
 言葉の意味は理解できるのだが、何を言いたいのかは謎だった。物理的に存在しないとい意味から、身体が変わっているので元の場所に戻れないというものまで。
「君の荷物が示す君の家の住所には、何もない。学生証に書かれた学生ナンバーも、存在しない数字。君の所有物には、君が実在する情報が大量に記されている。しかし、現実に君の持つ情報は、どれも実在しない」
「何を言っているのか、わからないんですけど――」
 寒気が背筋を撫でる。
 身体は変わってしまっても、生理反応はそのままだった。オルワージュの言葉が意味する事に、寒気を覚える。自分の足下が崩れていくような不安感。
「当然だ。私も首を傾げているのだ。クレセント市最高の頭脳たる、このオルワージュ=ヌサカン・コロナ・ボレアリスがな……!」
 リクトに向き直り、言い切る。窓から差し込む日の光に、眼鏡が白く染まっていた。きつく引き締められた口元。微かに内側に傾く眉毛。
 苛立ちだった。自分の予想を超える状況に、苛立っている。
(何だろう、この人?)
 首元を指で掻きつつ、リクトは目蓋を半分下ろした。恐ろしさ半分、呆れ半分で。自分が物理的に存在しないかもしれないのに、オルワージュの言動のせいで緊張感が薄い。
 意図的にやっているのか、素の正確なのかは分からない。
「奇妙なことだ」
 腕を組み、手を顎に添えるオルワージュ。視線を落とし、口を閉じる。纏ってたよくわからない気迫が霧散した。そのまま歩き出す。リクトを無視して。
 ベッドの横を通り過ぎ、入り口のドアへと。微かな髪擦れの音が響く。
「まるで、私の実験が行われる直前に、突如として現出したようだ。つい昨日、全ての記憶と情報を持って、この世に生まれたのだ。なるほど。それも面白いことだな。目的はあの実験か? いや、他のものだな。誰だ? 誰の差し金だ――? あいつか? ヤツか? まさかアレか? まさか……なぁ……くくく」
 背中を丸め、左手で顔を押さえている。しかし、口元に映る不吉な微笑と、左目に点るぎらぎらとした殺気。獲物を前にした獣のような姿だった。
 心当たりは多いようである。
「フフフ……面白い。面白いよ……」
 手を顔から放し、オルワージュは一転穏やかな表情で天井を仰いでいた。楽しげな微笑みとともに、緩やかに両腕を広げている。まるで何かを受け止めるように。もっとも、黒い瞳には少なからぬ狂気が点っている。
「あの」
 おずおずとリクトは手を伸ばすが。
 その手が引っ込められた。
 筋肉に不自然な力が入る感覚。リクトが動かしていた身体が、リクトからミナヅキの制御下に戻る。ふぅとため息をつき、ミナヅキはオルワージュを眺めていた。
「マスターはああなってしまったら、結論が出るまで人の話は聞かなくなってしまいます。こちらに戻って来るまで待ちましょう。五分くらいで帰ってくるはずです」
「言ってる事はよくわからないけど、俺が存在しない?」
 質問の相手をミナヅキに変える。オルワージュほど事情は知らないだろうが、全く何も知らないということはないと、リクトは判断した。
「そのようです」
 ミナヅキは頷いた。
「立ち入り禁止の実験現場に現れた不審者として、身辺調査をしました。普通の学生さんのようでしたけど、大学にリクトという人はいませんでした。住所を調べてみても、そこには家はありませんでした。その他、あなたのにつながる場所を調べても、存在しなかったり、全く関係のないものだったり。不思議です」
「気味が悪いな」
 両腕で自分を抱きしめ、ため息をつく。
 今まで体験してきたはずの人生が、全部存在しない。自分自身を存在を消されたような気味の悪さ。にわかには信じられない事だった。
 思いついた事を口にする。
「見られちゃ行けない実験見られたから、俺を抹殺して証拠隠滅とか……」
「否だ」
 唐突に上がる声。
「ぉぅ!」
 肩を跳ねさせ、リクトは仰け反った。紺色の髪の毛が跳ねる。
 緩く腕を組み、オルワージュがリクトを見ている。採点をする時のような表情で。
「着眼点はいい。まあ、月並みであるがな。私たちの研究は、非常に危険で機密性の高いものである。必要とあれば不用意に実験内容を目撃した一般人の抹殺もありうる。もし君が重要度の高い機密実験を盗み見たようならば、速やかに抹殺するだろう」
「物騒ですね……」
 苦笑いとともに返す。
「それが機密性だ。情報というものの価値を甘く見ないでもらいたい」
 きっぱりと宣言した。
 重要な情報がどれほどの価値を持つのか、一般人のリクトには想像が付かない。それでも、人の命を奪ってまでも守るべき情報があるとは、想像することができる。
「君の場合は、情報隠滅をしたから情報が無いのではない」
 リクトに手を向け、オルワージュが説明する。
「元から無いのだ。名前も住所も家族情報も戸籍もある。だが、それらは現実に存在しない。もしくは、誰かが何らかの方法で全て消し去ったか――」
「………」
 リクトだけがいて、リクト自身に関わる情報が存在しない。もしくはリクトに関わる情報を全て消し去った。どちらも荒唐無稽極まりない事だった。
「何がなんだかわからない……」
「それはこちらの台詞だ」
 ふぁさぁっ。
 長い黒髪を払い、オルワージュが口を挟んでくる。髪を払う動作には、おそらく意味はない。ただの癖だろう。もしくは単純にきれいな髪の毛の自慢か。
「しかしある程度の推測は立つ」
 目を細めた。表情には余裕が映っている。最高の頭脳と自称するだけあり、既に解決への道筋はできているようだった。
「どんな推測ですか?」
「それは今は話せない」
 だがリクトの問いに、あっさりと返してくる。
 食い下がるわけにもいかず、リクトは大人しく引いた。自分が一体どうなってしまっているのか。自分の身に何が起こっているのか。全くわからないのだ。結局リクトの力だけではどうすることもできない。
 その事実に、悔しさを覚える。
「ミナヅキ」
「はい」
 ミナヅキが返事をした。
 オルワージュは右手を挙げる。人差し指をミナヅキに――いや、ミナヅキの中にいるリクトへと向ける。
「しばらくこの男の面倒を見て欲しい」
「分かりました。マスター」
 右手を持ち上げ、簡単な敬礼の仕草をする。
 一度視線を外し、オルワージュは再びリクトに目を向けた。今度はミナヅキでなくリクトである。表情は落ち着いていて感情は浮かんでいない。
「先にも言った通り、命と生活の保障はしよう。しばらくはミナヅキとともに身体と心を休めた方がいい。この現実は君に大きな負担となるだろう」
「はい」
 色々と腑に落ちないものはあるが、頷いておく。
 オルワージュは近くの棚に目を向けた。白い箱が置かれている。
「着替えは用意してある。私は調査があるので、これで失礼するよ」

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14/6/9