Index Top 第6話 夏休みが始まって

第8章 置き土産


 浩介は水色の寝間着の上からそっと胸を撫でた。続いて、背中を撫でる。
「完全に治ってるよな……」
 未だに信じられない。
 心臓の左横、右胸の下、へその左側。昼前に蟲の槍――というか杭で串刺しになったのだが、跡形もなく治療されていた。傷跡も痛みすら残っていない。
「結奈はふざけてるように見えるかも知れないけど、退魔師としては凄く優秀なんだよ。医療術師としてもね。それに、浩介くんも身体が頑丈だから」
 ソファに座った凉子がオレンジジュースを飲みながら笑う。白と灰色の寝間着姿。
 時間は夕方の九時過ぎだった。エアコンの効いたリビング。テレビは付けているが、観てはいない。凉子は経過の観察という名目で、浩介の家に残っている。今日は泊っていくらしい。幸いにして前回のように風呂場で襲われることはなかった。
 浩介は麦茶を一口飲んだ。狐耳を動かし、
「そうは見えないんだけど、結奈」
「私もそうは見えない」
 笑いながら、凉子も素直に同意する。
 結奈も慎一も、浩介が考えていたよりも遙かに凄い人間だ。しかし、それほど凄いようにも見えない。世の中そんなものなのかもしれない。
「でも、本人はそう主張してるよ。結奈の場合、本気で言ってるのか冗談なのか分からないから。蟲使いの血筋から考えると……半分本気で半分冗談かな」
「返答に困るな……」
 浩介は呻いた。首を傾げて、尻尾も傾げる。
 結奈の血筋は総じて頭の回転が速いと凉子には教えられた。狡賢いと表現する方が正しいだろう。策略を練るのが非常に得意で、その一方妙なところで抜けている。それは結奈を見ていて想像がついた。
「俺はこれからどうすればいい? 霊力を生み出すって言っても、作ってみたら法力しか作れなかったけど。やっぱりいきなりってのは都合良すぎるしな」
 浩介は右手を持ち上げてみた。
 ぽっ、と微かな音を立てて狐火が灯る。小さな青白い炎。だが、燃料は法力だった。人間である時と変わらずに術力を練り上げているが、作れるのは法力のみ。
 狐火を見ながら、凉子は首を振る。
「五年くらい修行しないと無理だよ。まず霊力を自覚するのに一、二年くらいかな」
「やっぱり」
 狐火を消し、浩介は項垂れた。先は長そうである。
「逆式合成術を使いこなせるようになるには……数十年かかるね」
「それも、気の長い話だな」
 ソファの背もたれに身体を預け、浩介は天井を見上げた。まだ時間感覚は人間と同じ。数十年という時間の長さを想像できない。普通に生きていればお爺さんだ。
「そういえば、リリルどこ行ったの?」
 ジュースを飲み干し、凉子は視線を動かした。家全体を示すように。夕方からリリルの姿を見ていない。夕方前までは家で涼んでいた記憶がある。
 浩介は窓の外を指差した。カーテンの向こう側。
「出掛けてるらしい。いつもの事だ」
「まだ子供なのに夜遊びなんて。保護者としてちゃんと叱らないと駄目だよ」
 頬のヒゲを動かしながら、凉子が言ってくる。姉が弟を窘めるような口調だった。凉子の方が年上なのは理解しているが、あまり説得力はない。
 その考えが顔に出ないうちに、浩介は窓を見やる。
「あいつ、見掛けは子供だけど、中身は大人だから大丈夫だって」
 以前何をやっているかを尋ねてみたら、情報収集という答えが返ってきた。リリルも色々と忙しいのだろう。元は名の知られた盗賊と自称している。
 ふとそこで気づく。頬に一筋に汗を垂らしながら、
「……って。こういうことって他言しちゃいけない、よう、な?」
 冷房の冷気とは違った肌寒さが背中を撫でる。
「私は大丈夫だよ。草眞さんから少し話聞いてるからね。でも、あんまり簡単にリリルのことを他人に話しちゃ駄目だよ。あの子、ああ見えて第二級機密事項扱いだから」
 淡い緑色の液体の入ったコップを揺らしながら、凉子はさらっと言ってきた。第二級機密事項、という小難しい文字が並ぶだけで、重要度が増したように思える。
「その割には、みんな知っているような……気もするけど」
 浩介だけでなく、慎一と結奈は知っている。当然ながら、凉子も知っている。慎一や結奈は家系の立場上黙っているはずがないし、凉子も黙ってはいられないだろう。噂が広がるのは早い。機密事項とは思えない。
「そこら辺は大丈夫みたい。何だかよく分からないけど、細工がしてあるんだって」
「細工、ねぇ」
 ぱたりと尻尾を動かす。
 脳裏に浮かんだのは、先日の訪ねて来た白鋼だった。あの人が何かしている。根拠はないが、確信めいたものがあった。しかし、それを口に出すことに微妙な危険性を覚えたため、敢えて何も言わないでおく。
「そういえば……」
 浩介は狐耳を動かした。
 凉子の飲んでいる淡い緑色のお茶のようなもの。最初の頃はオレンジジュースを飲んでいたのだが、気がつくと今の飲み物を口にしている。
 いつの間にかテーブルに置かれた水筒を指差し、
「さっきから何飲んでるんだ?」
「これ? 香草茶の一種だよ。美味しいよ、飲んでみて」
 尻尾を左右に動かしながら、コップに中身を注いでいく。これといった妙な部分は見られない。銀色の水筒からコップに移されていく、お茶のような液体。
 そして、コップを浩介の前まで差し出しだ。
「香草茶の一種?」
 コップを掴み上げ、匂いを嗅いでみる。鼻孔を通り抜ける甘い香り。決して不味そうなものではない。むしろ美味しそうな香りだった。お茶に似ている香りなので、香草茶というのは正しいのだろう。
 一口含んでみると舌に広がる不思議な甘さ。ジュースのような甘さではなく、高級和菓子のような自然な甘さ。微かな苦みと酸味、アルコールの刺激がそこに加わる。それらが一体となって今までに感じたことのない味を作り出していた。
 浩介は一気にコップを空にする。
「美味い……」
「もう一杯いいよ」
 凉子がコップに香草茶を注いだ。
 浩介はコップを手に取り、ゆっくりと中身を飲み干していく。癖になるような甘いお茶が喉を通り、腹の中へと流れ込んでいった。
 二杯目を飲み終わり、浩介はコップをテーブルに戻した。
「ありがとう、美味しかったよ」
 額を手の甲で拭いながら、浩介は礼を言った。
 言ってから、気づく。額を拭ったという事実に。冷房の効いたリビング。外は夏の暑さを残しているが、部屋の中は涼しい。汗をかく理由はない。
 だが、皮膚がじっとりと熱を帯びている。身体の芯が熱い。
 今更ながら猛烈に嫌な予感がして、凉子を見つめた。
「……何コレ?」
「マタタビ酒の一種。そんなに強くはないけど、獣族には発情効果があるんだ。お酒と一緒に女の子に飲ませて――なんて使い方もあるけど、味が特徴的だから成功することはまずないね。ちなみに、結奈が持ってきたよ」
 悪びれる様子もなく、隠すつもりもない。世間話よろしく白状してくれる。浩介に飲ませただけでなく、自分も飲んでいた事からして、目的は明白だろう。
「何故?」
 浩介はただそれだけを問いかけた。
 凉子はおもむろに右手を持ち上げ、びしっと浩介を指差す。
「私は浩介くん、あたなに嫉妬しているので〜す。ほとんど偶然とはいえ草眞さんの身体を手に入れた――草眞さんにずっと触れられて包まれているあなたに、私は嫉妬しているので〜す。だから、虐めたくなるのでェす! 私は草眞さんLOVEです。あと、物語展開的なお約束〜♪ 文句あるかゴルぁ〜」
「……酔ってるよね?」
 見たままの感想を、浩介は口にした。頬が赤く染まり、目付きも曖昧、呂律も正常ではないような気がする。言っていることもおかしい。
 凉子は水筒の中身を一気に飲み干し、
「にゃはは……」
 曖昧に笑った。疑問の余地なく酔っぱらっている。
 推測であるが、凉子はマタタビ酒に弱いのだろう。もしくは、凉子に効くように作られたものか。結奈の狙いは、浩介にマタタビ酒を飲ませることではなく、凉子を暴走させることだった。どちらにしろ結果は碌なものではないが。
「うにゃー!」
 凉子が跳んだ。猫目をぎらぎらと輝かせながら、両腕を広げて飛びかかってくる。
 浩介はすぐさま身を翻すが、逃げられる理由もなかった。背中から凉子に体当たりされ、ソファの上に押し倒される。背中に凉子が馬乗りになっていた。
「浩介く〜ん。可愛がってあげる、わぁ」
 不自然に艶を帯びた声音で、そんなことを言ってくる。
 

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