Index Top 第6話 夏休みが始まって

第1章 浩介、キレる


「よう、コースケ」
 リリルは片手を上げて挨拶をした。
 玄関を開けた浩介。男の姿のまま、リュックを背負っている。大学から帰った直後。今日は大学の最終日だと言っていた。明日からは夏休みらしい。
 時計の針は午後三時を指している。
「おかえり」
「どうした?」
 挨拶するリリルに、眉根を寄せる浩介。
「お前が出迎えなんて珍しいな。珍しいというか、初めてだろ」
「初めてだな」
 首を上下に動かし同意する。
 浩介の帰宅には興味がなかったので、今まで出迎えなどすることはなかった。大抵外に出ているか、浩介のパソコンを弄っているか、時々昼寝していることもあった。
 リリルは両腕を左右に広げて、笑ってみせた。
「たまにはいいだろ、こういうことも」
「何やった……?」
 浩介の顔に表れる不安の表情。幸いにして怒りの色は見られない。
 完全従属という契約がある状態で浩介を怒らせるのはぞっとしない。やや口は悪いものの基本的にお人好しであるため、多少の我が儘を言っても怒ることはない。ただ、本気で怒った姿を一度も見たことがないので、怒るとどうなるのか想像も付かない。
「そんなに大したことじゃない――」
 リリルは言葉を濁らせた。上手く誤魔化す自信がない。もっとも、浩介の性格を考えれば、下手に隠しても逆効果だろう。そうは見えないが、真面目な部類に入る。
「多分怒らないから、素直に白状しろ」
 その言葉が命令として、心に刻まれる。答えろ、と。
 リリルは吐息した。命令には逆らえない。自分が精霊の一種である魔族であることに不満を持ったことはないが、今は不満を感じる。人間が水中で呼吸ができないように、精霊は契約には逆らえない。
「パソコン壊した」
 命令に従い、リリルは正直に白状した。
 浩介の目が泳ぐ。数秒の沈黙を挟んでから、確認するように訊いてきた。
「そ、れは……どういう意味だ?」
「えっとな」
 尻尾をふららと動かす。
「さっきお前のパソコンでネットうろついてたら、びっくり系フラッシュに引っかかって、飲んでたオレンジジュースをハードに吹きかけた」
 我ながら漫画のようなことをやったと思う。ジュースを吹いた時は思わず笑ってしまったが、さすがにキーボード操作を受け付けなくなった時には血の気が引いた。そのまま、ブルースクリーンで止まってしまった。
「お前なら、魔法で直せるだろ……? 多分、きっと」
 明らかに焦りながら、浩介。
 大人の身体よりも魔力が減っているとはいえ、修復の魔法は使える。パソコンを直すことは造作もない。魔力の制御を間違うことはない。
「魔法で直したことは直したんだけど、アタシも高度な電子機器直すなんて初めてだったから……なんか初期化されてた。すまん、パソコン本体は無事だったけど、全データ吹っ飛んだらしい。バックアップは取ってある、よな?」
 言い終わる前に、浩介は走り出していた。靴を脱ぎ捨て、リュックを投げ捨て、階段を駆け上がっていく。二階の廊下を走る足音と、ドアを叩き開ける音が聞こえた。
「泣いてたような気がする。アタシが泣きたいけど」
 自虐的な笑みを浮かべながら、リリルは浩介の後を追った。
 かなりゆっくりと足を進める。脳裏に浮かぶのは、大昔に死にかけて医者に掛かった時のことだった。怪しげな薬の詰まった注射器を見た時の気分に似ている。
 逃げ出したいが、逃げたら後が大変だろう。
 およそ二分かけて階段を上り切る。
「憂鬱だ」
 呻きながら、リリルは二階の廊下を進んだ。開け放たれた浩介の部屋から声が聞こえてくる。変化を解いていたらしく、女の声。
「Lu La ルッ La ピアノは世界の ユ メ 咲く のハラに メロディ
 壊れタ 時計ヲ信じて じっカんは 誰の味カタ〜」
 妙に暗い音程の空耳ケーキを意識外に絞め出しつつ、リリルは足を進めた。曲名が分かってしまうことに若干の自己嫌悪を覚える。足が鉛のように重い。
「おーい、コースケくーん?」
 怖々と声を上げる。開け放たれたドアから、リリルは中を覗き込んだ。覗き込んで、後悔する。部屋に漂う、粘り着くような負のオーラ。
「あル〜晴レ〜た日〜のコと〜。マホ〜以上の ユ〜カイな〜
 限りなく降りそ〜ソぐ 不可能じゃ NA☆I☆WA☆HAHA!」
 変化を解いたまま、パソコンのディスプレイを見つめる浩介。無意識にだろう。勝手に口が小声で歌っている。本来なら長調の歌を短調にして。
「意外と器用なヤツ」
 くるり、と浩介が振り向いた。
 リリルは無言のまま後退る。昆虫並みの唐突さと素早さを以て。廊下の壁にぶつかって止まった。これ以上逃げられない。壁に張り付いたまま硬直する。
「イやぁ、リリルくん。俺が今まで集めたおヨそ100G相当の二次画像が全部消えてタヨ。どうも物理フォーマットされタようナ状態で、復元ソフト使っテモ復元は無理っぽい。多分、買った当時の状態まデ修復しちゃッタんじゃないかナー?」
「………」
 自分で言うのも何だが、度胸はある――と自負していた。目の前に刃物突きつけられても怯まない自信はある。この子供の身体でもだ。皮肉のひとつも返せるだろう。
 だが、壊れたように笑いながら、虚ろな両目から涙を流す姿は――普通に怖い。
「人間ってこんな凄い顔出来るんだなぁ」
 現実逃避気味にそんなことを考える。
 浩介が一歩足を踏み出した。かくかくと身体を震わせながら近づいてくる。映画のゾンビのような動き方。逃げ出したいのだが、足が震えて逃げられない。
「面倒だかラ外付けハードディスクを買わなカッた俺も悪いと思う。バックアップ取るニも100GナンてDVD25枚相当だしナ。でも、フラッシュに驚いてジュース吹き出しタナんて、今時分ギャグ漫画でも出てこナイようなベタベタな展開はなイダろ。常識的に考えテ」
「いや、本当にすまん。反省している」
 引きつった愛想笑いを浮かべながら、リリルは謝罪した。怪物に襲われる人間はこのような気分なのだろうと場違いなことを思う。
 目の前までやってきた浩介が、ぽんとリリルの肩に手を置いた。
 びくりと全身が跳ねる。
「うンうん。何カお仕置きとかシないとイケないね。ケモ帝読ませるヨうな外道なことはしないケド。うーん、何がいいカなぁ?」
「弁護士を呼ぶ権利を主張する」
 地獄の亡者のような浩介の顔を見ないように視線を外しながら、リリルは的外れなことを言ってみた。頑張ってこれから起ることに対して覚悟を決めてみる。
 浩介が耳元に口を近づけ、小声で呟いた。
「上上下下左右左右BA」
「………!」
 合い言葉、と理解した時にはもう遅い。身体の芯から焼けるような熱が生まれ、瞬く間に全身へと広がって行った。喉が渇き、背筋が寒くなる。
「な、にをした?」
 浩介はリリルから手を放し、踵を返した。背中しか見えないため、どのような表情をしているのかは分からない。さきほどまでの邪気は消えている。
「あれだ、発情の魔法とかいうのを掛けた時と同じ状態になる。そういう合い言葉だ。あと、自分で慰めるのはあらかじめ禁止。俺の許可無く達するのも禁止だ。そう命じてある。お前の嫌がっていたジラシプレイというヤツだな」
「何考えてんだ……!」
 熱の正体を明かされたせいだろう。全身が激しく疼き始めた。魔法によって精神に働きかけ、異常な発情状態にするもの。自分を慰めようと無意識に腕が動きかけるが、浩介による命令がそれをさせない。
 浩介は振り向きもせずに言ってきた。
「俺はCDやDVDを漁る。お前は自分の部屋で夜まで悶えてろ」
 バタリとドアが閉まる。

Back Top Next