Index Top 第4話 猫神の凉子 |
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第8章 読めない同人誌と赤い石 |
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浩介はリビングのドアを開けた。 「ただいま。帰ったぞ」 「おー。おかえり」 ソファに座ったリリルが、顔も上げずに答える。 手の平大の赤水晶を眺めていた。血のように赤い、透明な六角柱の宝石。禍々しい色や雰囲気。どう見ても、ただの宝石ではない。 「何だ、ソレ?」 「魔石。ソーマの婆さんと交渉して手に入れた」 石を弄りながら、リリルは答えた。 「魔法式組んでるように見えるけど、何する気だ?」 「魔力を貯めるんだよ、こいつにな。貯金箱みたいなものだ。貯めた魔力を使うと、短時間だけど以前の姿と力を取り戻せる」 浩介を見ることもせず、淡々と答える。子供になったのは、身体を構成する魔力を失ったから。つまり、逆に魔力を補充すると、元の大人に戻れるのだろう。 「戻って、どうするんだ?」 「仕事だよ、仕事。ソーマと取引した。詳しくは話せない」 「ああ」 浩介は頷いて、リュックをソファに置いた。 草眞と取引したのは嘘ではない。今朝、机に手紙が置いてあった。「リリルと取引した。詳細は訊くな」と。午前中、リリルはどこかに出かけていた。 「喉乾いた」 キッチンに移動し、浩介は冷蔵庫を開ける。 昨日買い物したので、肉や野菜や魚が色々と詰まっていた。なにげなく、大量の油揚げが置いてある。気がついたら買い込んでいた。 「俺ってキツネなんだなぁ」 頭を撫でながら呻く。変化は解いてないので、キツネミミはない。 麦茶を掴んで、リビングに目をやり。 「………」 リリルが倒れていた。 誰かに殴られたように床に突っ伏している。ぴくぴくと痙攣しているところを見ると、生きてはいるようだった。突然のことに状況が理解できない。 警戒するように周囲に目を向ける。 赤い宝石、開けられたリュック、そして床に落ちた封筒と、一冊の薄い本。 「まさか、読んだのか!」 浩介は麦茶を置いて、リリルに駆け寄った。近くに落ちている本をちらりと見やる。茶色のカバーのかけられた本。「危険物」という文字が赤字で記された。 幸いにして、落とした時に閉じている。 「おい。しっかりしろ」 「あ。うぐぅ……」 意識を取り戻したリリル。震える手を床につき、身体を起こした。毒でも食らったかのように、苦しげな顔。事実、これは毒である。精神を蝕む猛毒。 「ぐ、かはぁッ! 何だ、今……何か見えた……。はッ」 胸を押さえながら、荒い呼吸を繰り返している。 「神聖けものみみ帝国」 びくりと肩を跳ねさせ、リリルは浩介を見た。 右手に抱えられた本を見て、怯えたように跳び退る。右腕を一振りし、魔剣を召喚した。呪文を呟き、起動させる。緋色に染まる剣身。 「何だ……それは! 答えろ、コースケ!」 魔剣を構え、叫ぶ。理解不能の事態に、混乱しているようだった。 カバーに覆われた表紙を見ながら、浩介は説明する。 「伝説の同人誌……。発行年月日も作者も不明。あまりの内容の痛さに、オタク世界では禁書扱いされている。数ページ読んだだけで発狂する、暗黒の書として――な。こいつはそのうちの一冊だ。昔、好奇心に負けた漫研部員が読んで、倒れたらしい」 表紙すらも凶器となる、狂気の同人誌。浩介も一度カバーを少しずらしてみた。極彩色の背景と、やたらポップな『神聖けものみみ帝国』の文字。微かに見えたネコミミ少女の頭……そこで意識が飛びかけ、カバーを戻した。 リリルは好奇心のままに開いて、直撃を食らったのだろう。 「燃やせ、今すぐ焼却処分しろ! そんな精神破壊兵器!」 魔剣を浩介に――いや、本に向けて、叫ぶ。精神破壊兵器。まさしくその通りだ。読んだだけで人を狂死させられる本である。これは。 作者はおそらく既に壊れていたのだろう。そう考えると、オカルトだ。 「どんな内容だった?」 「………」 浩介の呟きに、内容を思い出したらしい。魔剣の切っ先が震える。やがてその震えは全身に広がっていった。泣きながら、無言で頭を壁に叩き付ける。 床に落ちて、輝きを失う魔剣。 「いや、分かった。すまない。今のは本当に俺が悪かった。今すぐ内容を完全に忘れろ。これは命令だ。とにかく本の内容は忘れろ」 リリルの動きが止まる。壁から頭を離し、数歩下がった。 命令されれば従う。リリルの身体も心も、一切の自由がない。忘れろと命じられれば、自分の意志に関係なく忘れてしまう。裏を返せば、浩介の命令ならば、忘れたいことを忘れることもできるのだ。 「感謝する」 額を拭いながら、リリルは棒読みに答えた。 「このくそったれな契約を、今ほどありがたく思ったことはない」 「ただ……」 浩介は見せつけるように本を見せる。茶色の頑丈な紙のカバー。リリルは魔剣を拾い、素早く構えた。内容は忘れても、危険性は恐怖として刻み込まれている。 「お前が何か悪さしたら、コレ全部朗読させる」 「死ぬわボケえええええええ!」 浩介の言葉に、魔剣を振り上げ絶叫した。血の涙を流しそうな勢いで、怒濤の涙を流してはいる。全部で四十八ページ。朗読したら確実に狂死。 「冗談だ」 浩介は本を封筒に納めた。 「冗談ならもう少し気の利いたこと言え。それより、どうする気だ? それ……お前が読むのか? 耐えられるとは思わないけどな」 魔剣で威嚇しつつ、リリル。腰が引けている。 浩介は頭をかいて、封筒を見つめた。 「読みたいけどな、読んだら俺の精神が持たないし。……あの先生でも半分しか読めなかった言ってたし。よほど狂った内容なんだな」 「半分も読んだのかよ、そのセンセイは……。化物か」 魔剣を消し、リリルが本気で戦く。 木村京太郎。漫研顧問の奇人教授。通称ドク、といっても誰もドクと呼んでくれないが。長身痩躯の絵に描いたようなマッドサイエンティストな人物で、かなり強靱な精神力を持つ。それでも、半分が限界だった。 恐るべし、神聖けものみみ帝国。 「結奈なら……。あの三人なら……」 考えてから吐息とともに諦める。漫研の猛者でも、京太郎には及ばない。ふと別の候補者が浮かんだ。が、殴られそうなのでやめておく。 封筒をリュックに戻し、浩介は床に落ちた魔石を拾い上げた。 「これ、大人に戻れるって言ってたけど……」 「何だよ?」 「大人に戻っても、ちゃんと契約は続いてるよな。いきなり復讐の刃を俺に向けるなんてないよな。正直に答えてくれ。てか、答えろ」 じっとリリルを見つめ、命令する。 「安心しろ。大人に戻るっていっても、一日がせいぜいだ。それに、この契約はあたしが死ぬまで続く。契約の外し方も、ソーマしか知らないしな」 「そうか。安心した」 それを聞いて、浩介は吐息した。 腰に手を当て、リリルが呻く。目蓋を下ろして。 「自覚はあるんだな……」 「当たり前だろ」 浩介はきっぱりと答えた。 |