Index Top 第4話 猫神の凉子

第7章 屋上での戦い


 重いガラス戸を開け、南棟から出る。
 月曜日は午後の講義のみ。講義後、京太郎教授の研究室に寄ってお使いの謝礼を貰ってきた。今は封筒に収められ、リュックの中にしまってある。
 午後四時五十分頃。空は明るく、気温は高い。周囲にはちらほらと人の姿が見えた。
「漫研顔出さないとな……」
 陰鬱に独りごちると同時――
 浩介の身体に黒い鞭のようなモノが巻き付く。気づいた時には、視界が跳ねていた。事態を理解する間もなく、逆バンジーのように上空へと吹っ飛んでいく。
 四階建て南棟の屋上まで飛び上がり、浩介は仁王立ちする結奈の姿を見た。
「あ!」
 理解した時には、フェンスを跳び越え屋上へと落ちている。
 ポニーテイルの黒髪、縁なし眼鏡、緑色の半袖ジャケット、白いスラックス。いつもの恰好。というか、いつもこの恰好。何着も同じ服を持っていると言っていた。
「ハロー。コースケくん♪」
 会心の笑顔で結奈が人差し指を弾く。
 放たれた小さな霊力の弾が、あっさりと浩介の変化を解いた。人間の男から、一瞬で狐神の女に戻る。解術――術の効果を解く術。
「ちょ、待て。待て! ……て、ええッ!」
 立ち上がろうとするが、身体が動かない。
 大量の砂鉄のようなモノが、全身を拘束していた。両手両足、身体、尻尾を絡め取り、床へと貼り付けている。さきほど浩介を引っ張り上げた鞭のようなものも、この砂鉄だろう。腰と両手をついた体勢のまま、動けない。
 口元に手を当て、不敵に笑う結奈。メモ帳を取り出し、
「鉄鬼蟲。迫撃術も使えないあんたじゃ、振りほどけないわよ。さて、前置きは抜きね。リリルちゃんとのあま〜い耽美な体験を、あんたの主観からきっちり報告しなさい。黒鬼蟲の偵察じゃ分からない部分もあるか――」
 カコン。
 硬い金属音を立てて、結奈が横に吹っ飛んだ。
 一回転して、床に倒れる。
 視線を戻した先には、細長い鉄の板があった。幅三センチ厚さ五ミリ長さ約九十センチの鋼。ホームセンターなどの隅っこで売っている平鋼。これで結奈を思い切り殴ったのだ。資材倉庫から持ち出したものだろう。
「死んだ……?」
「生きてるって」
 我に返り、声の主に目を向ける。
 短めの黒髪に、青い半袖シャツと白いデニムのズボン。どことなく田舎者っぽく、地味な印象の男。瞳に映る淡泊な感情。そして、うっすらとした狂気。
「日暈――慎一……」
 浩介は薄い恐怖とともに、その名を呟いた。
「この程度で死ぬほど、ヤワな鍛え方はしてない」
 言うなり、左手に持っていたヤスリを投げ放つ。
 ヤスリがコンクリートの床に刺さった。結奈はいない。風斬り音とともに奔る黒い鞭。慎一のいた空間を貫き、一瞬で戻っていく。慎一の姿も消えていた。
「相変わらず、何考えてるのよ。あんたは……。いきなり鉄の棒でぶっ叩く? 一般人なら頭蓋骨割れてるわよ。そもそも、何であんたがここにいるの?」
 頭をさすりながら、眉を傾ける結奈。身体の周りを漂う砂鉄のような、蟲。
 視線の先には、慎一が立っている。平鋼を持った右手を下ろし、
「凉子に頼まれて。そこの樫切……ええと、浩介だったか? とにかく、そいつをお前から守ってくれって。言って聞くような相手でもないし、とりあえず殴った。これくらいじゃ死なないだろ。昨日あれだけ斬られたってのに、もう平気そうだし」
「十三ヶ所もざくざく斬られて平気なわけないでしょ! まだ痛みは残ってるし、ちょっと血も足りないし。加減ってもんを知らないんだから、日暈の連中は――」
「そうか? 僕は昔三十ヶ所くらい斬られたけど平気だったぞ?」
「内臓二、三個潰されても平然と動けるような連中と一緒にしないでちょーだい!」
「お願いですので、目の前でさらっと怖い話するのは止めて下さい。ホント。マジで」
 耳を塞ぐこともできず、浩介は懇願した。会話からするに、昨日二人で殺し合いをしていたらしい。一般人には理解したくもない世界を平然と語ってくれる。
「ちょっと黙ってな――」
 結奈が浩介に目を向け。
 吹っ飛んだ。慎一が足音もなく移動し、平鋼で薙ぎ払ったのだ。人間の限界を凌駕する俊敏性。人間を軽々と吹っ飛ばす膂力。躊躇なく人を鉄で殴れる精神性。
 結奈は十数メートル飛んで床に着地する。
「ったく。油断も隙もない」
 右脇腹の辺りを蟲が覆っていた。咄嗟に蟲で防御したのだろう。慎一の動きも人間ではないが、結奈の反応も人間ではない。
 ザムッ、という霜柱を踏みしめたような音。
 慎一周りに漂っていた蟲が、灰のようなモノになって床に落ちた。何をしたのかは分からないが、攻撃した蟲を倒したのだろう。多分。
「嗚呼。神様、助けて――」
 非現実的なケンカを前に、浩介は神に助けを求める。神は自分だが。
 願いに応えるように、身体が起き上がった。自分の意志ではなく、勝手に。もっとも、救いでも助けでもない。蟲が浩介の手足を拘束して、無理矢理動かしていた。
 そのまま、慎一へと飛びかかる。
「待ッ――ごほ!」
 右胸の真下に踵がめり込んでいた。鉄骨で殴られたような、桁違い重い一撃。
 悲鳴も上げずに吹っ飛び、浩介はフェンスに激突する。
「あ。すまん」
 慎一が一言謝る。反射的に攻撃したのだろう。
 声が出ない。息もできない。踵を食らった横隔膜が、動かない。背中まで突き抜ける重い痛み。意識が飛びそうであるが、不運なことに気絶はしていない。
「うにゃああああ!」
 猫のような声。
 慎一が横へ跳んだ。
 その場所を三本の刀が斬り裂く。凉子だった。両手と尻尾で乖霊刃を構え、威嚇するように耳と尻尾を立てている。迫力があるようで、いまいちない。
「慎一さん! 『守って』て言ったのに、何で浩介くんを攻撃してるんですか!」
「いや。僕じゃなくて、あいつが悪い……。って、いないし」
 結奈を指差そうとしたのだろう。しかし、結奈は消えていた。逃げたらしい。いつもながら、逃げ足の早さは特筆に値する。
「問答無用!」
 凉子が慎一に襲いかかった。
 ため息をつく慎一。その場に留まったまま、閃く白刃を無造作に捌く。剣舞のような高速の斬撃。それを平鋼で弾き、身体を反らして躱し、空いた左手で払った。凉子の動きも浩介の理解の外だが、慎一はそのさらに上を行っている。
 凉子の顔に焦燥と冷や汗が浮かんでいた。慎一は防御しているだけ。だが、それだけで凉子を圧倒している。実力の差は歴然だった。
「三刀風刃――」
 凉子が刀を引く。
「竜巻ッ!」
 その場で身体ごと刀を回転させ、小規模な竜巻を作り上げた。周囲のモノを引きずり込みながら渦巻く、空気の奔流。周りの敵をまとめて倒す技だろう。
 だが、慎一はあっさりと射程外に移動していた。
「三刀砲華――」
 三刀に込められる法力。浩介の家のリビングを破壊した大技。
 平鋼を持ち上げる慎一。込められる力。霊力とも気とも違う力。
「三百煩悩……攻城鳳!」
 空間がひしゃげた。
 白い光のような法力の螺旋と、慎一の放った剣風。両者がぶつかり、衝撃波となって飛び散る。コンクリートの床に亀裂が走り、爆音が轟いた。破壊力が相殺される。
 凉子は息を乱しながら、三刀を構えた。
「もう気は済んだだろ?」
 慎一が平鋼を捨てて――
 凉子の胸に左拳がめり込む。突進から心臓への正拳。
 地味だが、威力は本物だった。慎一が腕を引くと、凉子は糸が切れたように崩れた。意識はない。床に膝を突き、前のめりに倒れる。乖霊刃が床に落ちた。
「おい、樫切。もう立てるだろ。その身体はそんなにヤワじゃない」
 言われた通りに、浩介は立ち上がる。蹴られた部分が痛むが、もう平気だった。呼吸もできるし、動くこともできる。確かに頑丈な身体だ。
「何で凉子さんが――?」
 浩介の呟きに、慎一が答える。
「様子見てたんだろ、どっかで。結奈を止めるには、僕みたいに拳で止めるしかない。凉子じゃ結奈には勝てないから、どうやっても止められないし。……何で僕に攻撃仕掛けたのかは知らないけど」
 結奈を止められるのは、浩介が知ってる中でも四人。漫研の上位三人と、顧問の京太郎教授のみ。結奈は自身を上回る相手の言うことしか聞かない。
 慎一は両手で印を結び、手の平を床に向けた。
 膨大な霊力が修復の術を構成する。浩介の十倍以上の力。割れたコンクリートの床が数秒で元に戻った。戦闘の痕跡が消える。
「何かあったら呼んでくれ。できる範囲で協力する」
 平鋼とヤスリを拾い上げ、慎一は浩介に背を向けた。

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