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第25話 噂をすれば影


 クロノは前足で首を掻いた。
 街の図書館。カウンターの裏側。シデンが司書の仕事をしている時の定位置だった。目の前にはタイプライターが置かれている。図書館の備品で、クロノは本を書くために借りていた。しかし、文字はあまり打たれていない。
「暇……」
 椅子に座ったシデンが両足を動かしている。
 尻尾を左右に動かしつつ、クロノは自分の主を見上げた。
「この時間はいつもこんな感じだろう?」
 それほど大きな街でもなく、この図書館もそれほど大きくはない。毎日のことだが、昼前のこの時間帯は暇である。他の職員は、本の整理などをしている。
 シデンは左手で鎖を掴んだ。クロノの首とシデンの首に嵌められた首輪と、それをつなぎ合わせている黒い金属製の首輪。
「この鎖を外して欲しいのだケド。凄く、不便」
「我慢しろ。少なくともあのロアたちがここを出て行くまで」
 クロノは硬い首輪を前足で撫でる。鎖を付け始めてから今まで、会う者全員がこの鎖をみて驚いていた。図書館の他の職員も同様に。あまりおかしな事で注目を集めるのは好きではないが、今回はクロノも本気だった。
「……少なくとモ?」
 微かに目蓋を持ち上げ、シデンは黄色い右目をクロノに向けた。いつもと変わらぬ、感情の映らぬ瞳。他人には分かりにくいが、微かな憤り。
 クロノは右前足を動かしながら、
「あー。これ、予想以上に楽だから、あいつらがどこか行った後も、このまま鎖に繋いでおこうかなと思ってな。お嬢はよく行方不明になるし」
 とっ、と軽い衝撃が背中に落ちる。シデンが椅子からクロノの背に飛び降りたようだった。そのまま両手を伸ばして、頭の三角耳を掴み――引っ張る。
「イデデデ! 痛いって!」
 頭を振り回し、手を振りほどく。あっさりと手を放すシデン。
 クロノは床に顎を落とし、前足で耳の根元を撫でた。千切れることはないが、付け根にひりひりとした痛みが残っている。
「コレ、どうやったら外れル? ただの鎖じゃないみたいだケド」
 鎖に噛み付きながら、シデンは首を傾げていた。
 この最果ての住人は、どんなものでも食べることができる。普通の食事から、生の木や草、果ては石や金属まで。どんなものでも噛み千切り、飲み込み、消化が可能だ。そういうルールである。しかし、全部というわけではない。
 この鎖はその食事のルールから外れているものだった。
「俺も知らん」
 その言葉に偽りはない。
 出所はクロノも知らない。教授の持ち出すものは大抵そういうものである。
 シデンは天井を見上げた。白い塗料の塗られた木の天井。
「切断機で切れル? 鎖を切断する道具ガ、どこかにあったと思ウ。街か森かはよく覚えていないケド、きっとそれを使えば何とかなるかもしれなイ」
「そこまで行かせないけどな」
 静かに、そう付け足すクロノ。
 シデンとクロノでは、クロノの方が力が強い。千切れない鎖で繋がった状態ならば、クロノがそちらへ行こうとしない限り、目的地に向かうことはできない。
「ン?」
 背中の毛が逆立つ。
 寒気を覚え、クロノはその場に起き上がった。身体を勢いよく振り、背中のシデンを床に落とす。背中から消える重さ。全身の黒い毛が、微かに擦れる音を奏でていた。
 ぺたりと尻餅をついたシデンを見下ろし、訊く。
「どこ引っ張ろうとした?」
「尻尾」
 即答するシデン。クロノの尻尾を見ながら。
 尻尾を下げつつ、クロノは威嚇するように牙を見せた。
「そっちはやめろ、マジで。脊髄に直接繋がってるから痛いんだぞ、本当に」
「そう言われると、引っ張りたくなル……」
 右手を握って開き、シデンが尻尾を見つめている。淡々とした光を移している黄色い右目。その奥に見えるのは、好奇心だった。クロノの尻尾を引っ張ってみたいという、単純にして厄介な好奇心。
「やめろ」
 尻尾を隠し、心持ち身を引きつつ、威嚇を続ける。
 それで、触って欲しくないという気持ちは伝わったらしい。シデンは伸ばしていた右手を引っ込めた。手の平を長めながら、思い出したように口を開く。 
「そういえば、アルニという妖精の女の子にはまだ会っていなイ。ロアの方は乗り心地が九十五点だったと記憶していル」
「基準はそこなのか?」
 口を閉じ、半眼で尋ねる。シデンは人に乗っかるのが好きだった。
 それはいつもの事なので、優先度は低い。
「てか、アルニか……」
 クロノは眉間にしわを寄せる。
 ロアと一緒にこの最果てのにやって来た妖精の女の子。妖精繋がりということか、ロアが神殿に出掛けている間はハイロがアルニを預かっていた。主の近くに、外の者がいるのはあまり感心できることではない。
「ハイロの話だと、アルニは口が軽いみたいだから、お嬢とは会わせたくないな」
「む……」
 クロノの台詞に、シデンが頭を掻く。
 風が、流れる。
 クロノとシデンは、同時に振り向いた。
「ワタシの事、呼びました?」
 カウンターの上に、小さな女の子が浮かんでいる。
 身長二十センチほどの身体で、背中から微かに青みがかった二対の羽が生えている。人間の年齢にすると十五、六歳ほどだろうか。やや外跳ねしたショートカットの水色の髪、青い瞳。紺色の上着にハーフパンツ、靴という恰好だ。
 肩から茶色の鞄を提げている。
「アルニ……。噂をすれば影……?」
 シデンが黄色い右目を妖精の少女に向けた。
 クロノは無言で頭を抱えた。

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11/7/1