Index Top 一尺三寸福ノ神

第31話 風のイタズラ


 午前九時過ぎ。窓の外では空気が唸りを上げている。
「風が強いのです……」
 鈴音は窓辺に立ったまま、ガラスの向こうを眺めていた。
 天気予報によると今日一日中強風が続くらしい。強風警報も出ていた。
 部屋を振り返る。一樹の部屋。壁に貼られたお守り神棚に、自分の依代であるお守りが納めてある。部屋の持ち主である一樹は、大学のサークル活動でどこかに出掛けていた。夜七時頃までは戻ってこないらしい。鈴音は留守番だった。
「一樹サマはいないのですね。ちょっと退屈なのです」
 五秒ほど考えてから、鈴音はガラス戸を開ける。
 ゴゥ!
 唸りを上げて部屋に流れ込んでくる空気。
 黒髪が巻き上げられ、白衣の袖や袴の裾が揺れる。思わず目を瞑りながらも、鈴音はガラス戸の隙間から、外へと出た。振り返って、窓を閉める。
「うー。凄い風なのです……! さすが強風警報なのです!」
 両手を腰に当てたまま全身で風を感じながら、鈴音は満足げに頷いた。吹き飛ばされるかと思うほどの強い風。耳元で唸りを上げる空気と、激しく揺れる白衣や緋袴。滅多に無い状況に、胸の鼓動が早まっている。
 しばらく風を感じてから、鈴音は身体を震わせた。
「寒いのです……」
 冷たい風に身を竦めてから、部屋へと戻ろうとして。
 不意に耳に入った乾いた音。
 目を移すと、ベランダの柵に新聞が貼り付いてた。強風にどこからか飛ばされて来たものだろう。黒く塗られたアルミの柵に貼り付いたまま、ばたばたと音を立てている。
 それは単純な出来心だった。
 鈴音は柵に貼り付いた新聞紙の元へ歩いていき、その端を右手で掴む。そのまま引き剥がして捨てようと、軽く引っ張った。それが見事に徒となる。
「な!」
 急激な勢いが身体にかかった。視界が跳ねる。
 鈴音が引っ張ったせいで柵に貼り付いていた新聞が、隙間から滑り込むようにベランダに流れ込んできた。間髪容れず風に煽られ大きく広がり、まるで誰かが意図したように鈴音の身体を空中へと引っ張り上げる。両足がベランダから離れた。
 すぐに手を放せば助かっただろう。だが、鈴音が咄嗟に取った行動は間逆だった。反射的に両手で新聞紙を掴む。
 後は一瞬だった。
 吹き付ける強風によって、その端を握った鈴音ごと新聞紙が空中へと舞い上げられる。風を受けて広がった新聞紙を押さえるほどの重さを、鈴音は持っていない。
「待つのでぇぇす!」
 鈴音は悲鳴を上げていた。だが、それで何かが変わるわけでもない。真下に見える一樹の家の庭。周囲の民家。正面に見える道路。不思議と音は聞こえない。青い空を流れていく綿雲。その上空では羽雲が別の方向へと流れていく。
「きれいな風景なのです……って、そんな場合ではないのです! 何を悠長に現実逃避しているのですか、ワタシは――!」
 不意に重力が消える。
「え?」
 両手を見ると、千切れた新聞紙の切れ端があった。小さな身体を空中に留めているものは――もうない。新聞紙は風に吹かれて、飛んでいく。鈴音を置き去りにして。
「その新聞紙、行っちゃ駄目なのでぇす!」
 叫んでも、どうしようもなかった。飛行能力のない鈴音は落ちるしかない。
 慌てて下を向くと、道路を走る軽トラックが見える。荷台に置かれているのは、タンスやテーブルなどの家財道具類。引っ越しか何からしい。
「!」
 一直線に荷台に落下し、鈴音の意識は途切れた。


 どれくらいの時間が経っただろう。
 ふと目を開けると、古ぼけた空の本棚が見える。何故そんなものが見えるのか訝ってから、鈴音は自分の置かれた状況を思い出した。
「ここは……どこなのです?」
 起き上がって、周囲を見回す。トラックの荷台。ロープで固定された本棚とテーブルと椅子、段ボール箱がみっつ置いてあった。左右には、明るい風景が流れている。どこかの市街地。しかし、少なくとも鈴音の知っている場所ではない。
「何にしろ、ぬいぐるみみたいな身体で助かったのです……」
 両手を動かし、身体を捻ってから、鈴音は頷いた。見た目は人間のような姿だが、実は生物のような明確な骨格や内蔵はない。簡単に言えば、具現化した法力の人形である。十メートル近い高さから落下して無傷なのは、そのためだった。
 車が止まる。赤信号に差し掛かったらしい。
 右を見ると大きな本屋があり、左を見ると大きな電気店があった。
『KYK電気 久多山市南支店』
「ええと、久多山市は確か北隣の市なのです……。一樹サマのお家からはそんなに離れてはいないと思うのですが、随分と遠くに来てしまったのです……。ん?」
 ふと身体に加速がかかる。青信号になり、車が走り出したようだった。
「マズいのです。このままだともっと遠くに行ってしまうのです!」
 慌てて荷台を蹴り、鈴音はトラックから飛び降りる。アスファルトの歩道に着地。足の裏に伝わってくる固い地面の感触。
 相変わらず風はまだ強い。気を抜くと吹き飛ばされそうなほどに。ぼんやりと空を見上げる。かなりの速さで空を流れる綿雲と、別方向に流れる羽雲。
「これは……物凄くピンチなのです……」
 気難しく眉根を寄せて、鈴音は腕組みをした。

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