Index Top 我が名は絶望――

第1節 ミストの頼み


「……え……?」
 気の抜けた呟きひとつを残し、ミストはその場に膝をついた。自分の身に何が起こったのか、理解できないのだろう。呆気に取られた表情のまま、倒れていく。
「ミスト君!」
 フェレンゼが慌ててその身体を支えた。
 ミストは緩慢な動きで、自分の胸に手を当てる。離した手は赤い血で塗れていた。胸元のどす黒い染みは徐々に広がっていく。
「あ、あたし……」
 血に濡れた手を見つめて、ミストは呆けたように呟いた。どこへとなく視線をさまよわせてから、自分を支えているフェレンゼに目を留める。
「どうしよう……?」
 問いかけるその声には、一片の緊迫感すら含まれていなかった。自分の状態を把握していないわけではない。感情が追いついていないのだ。
「……………」
 何も答えず、フェレンゼは歯を食いしばる。
 ディスペアは無言のまま、それらを眺めていた。心が動かない。本来ならこみ上げてくるはずの怒りも憎しみも悲しみも。不自然なまでに心が凪いでいる。
 感情が、許容量を超えてしまったのだろう。
「生贄は用意したよ」
 セインズが笑いながら言ってきた。空いた左手でミストを示す。
 ミストは、フェレンゼが地面に広げた青い上着の上に寝かされていた。フェレンゼが呪文を唱えながら、傷口に手をかざしている。
「その娘の命を使って、君の本気を見せてくれないか」
 どこまでも軽いセインズの声……。
 ディスペアは息を吸い込んだ。
 手足の先が痺れ、心臓の鼓動が早くなっていく。痙攣するように身体が震えていた。喉の奥が、燃えるように熱い。心が激しく揺らぐ。
「………!」
 ディスペアは目を見開いた。
 止まっていた感情が、爆発する。
「貴様アアアアアアアアアアアアアアッ!」
 絶叫を迸らせて、ディスペアは駆け出していた。何も考えられない。硝子の剣を横に構えたまま、セインズへと突っ込んでいく。
 セインズがこれ見よがしにため息をついてみせた。それが見えていなかったわけではないが、ディスペアは止まらない。止まるという考え自体が浮かんでこない。
「十三剣技! 三清流!」
 横薙ぎに硝子の剣を振るう。
 ギイン!
 セインズは黒曜の剣を上げ、苦もなく斬撃を受け止めた。
 お互いの武器をかみ合わせて、二人は睨み合う。
「無駄だよ」
 硝子の剣を受け止めたまま、セインズは肩をすくめた。
「禁断の技を使ってない君では、ボクに傷ひとつつけることもできない。おとなしく、ボクの忠告に従った方がいいよ。彼女は長くない」
 言い終わると、一言。
「吹き飛べ――」
「………!」
 全身が砕けるかと思うほどの衝撃が、身体を突き抜ける。
 ディスペアは紙くずのように吹き飛ばされた。宙を舞い、地面に叩きつけられ、数度跳ねてから転がり、最後に木の幹に当たって止まる。全身に痛みを覚えるが、意識がそれを受け入れなかった。
「おおおおおあああああああああ!」
 再び意味のない絶叫を上げながら跳ね起きる。ディスペアは再び地面を蹴った。理性は働いていない。こみ上げる感情のままに身体を動かし。
「ディスペア君!」
 鋭い声が、ディスペアを踏みとどまらせた。
 身体は動かさずに、視線だけを移動させる。声を発したのは、フェレンゼだった。銀縁眼鏡の奥に緊迫の色を映して、ディスペアを見つめている。
「落ち着いて下さい」
 言われて、ディスペアは我に返った。心を満たす灼熱が徐々に収まっていく。今はセインズに斬りかかっている時ではない。
「ミスト――」
 ディスペアはフェレンゼの上着の上に寝かされたミストに目を向けた。
 ミストの顔は血の気を失って蒼白になっている。呼吸も細い。目の焦点も合っていないようだった。どう控え目に見ても、致命傷である。生きていると言うよりは、死んでいないと形容する方が正しいだろう。
 ディスペアはフェレンゼに目を移した。貫くほどに強く睨みつけ、
「助かるのか?」
「いいえ……」
 ようやく聞き取れるほどの小声で、フェレンゼが答える。その瞳には、痛恨の色が表れていた。弱々しく首を横に振りながら、
「助かる確率は皆無です……。これほどの重傷、僕の魔法だけではどうすることもできません。急所を外れて即死こそ免れましたが、死ぬのが少し先に伸びただけです。回復魔法を使ったとしても、三十分が限度でしょう」
「そうか」
 一言だけ呟いて、ディスペアは身体の向きを変える。
 視線の先にはセインズが佇んでいた。黒曜の剣を横にぶら下げ、余裕の態度でディスペアたちを眺めている。攻撃してくる素振りはない。
 ディスペアは硝子の剣を構えて、再び駆け出そうとした。が……
「……待ちなさい……」
 かけられた声に足を止める。
 振り返ると、ミストが自分を睨みつけていた。死の色を濃く映した瞳に、対照的な熱い意志の光を灯している。声を途切れさせながらも、言ってきた。
「……まさか、あなた……このまま……あいつと戦う気……?」
「そうだ」
 ためらいなく答える。
「ミスト君、喋らないで下さい!」
 フェレンゼが止めるが、ミストは喋るのをやめない。咳き込み、血を吐き出しながらも、訴えかけるように必死に言葉をつむいだ。
「……このまま戦ったんじゃ、勝てない……。あなたが、そのことを……一番分かってるはずでしょ! あいつを……倒せなかったら、物凄い大惨事が起こるのよ……! 数え切れないほどの……人が殺されるのよ! 考えることは、ないでしょ……! あたしの……命を、使いなさい……!」
「俺は、誰も犠牲にしない」
 ディスペアは呻いたが、ミストは引かなかった。瞳に激しい怒りを浮かべて、語気を強める。だが、話すにつれて、命の炎が消えていくのがはっきりと感じ取れた。それでもミストは止まらない。
「……今さら……何、善人ぶって……るのよ……! どうせ……あたしは、死ぬん、だから……あなたの剣に、命を取り込まれても……結果は、変わらないわよ! ……あたしを、無駄死にさせないで! 早く……禁断の技を、使いなさい!」
「ディスペア君――」
 フェレンゼが冷徹な視線を向けてくる。これからどうするかを見定める眼差し。セインズと戦うために、ミストの命を使うか、否か。
「――分かった」
 ディスペアはミストの傍らに足を進めた。硝子の剣の切先をミストの胸に向ける。硝子の剣の究極の力。人間の命を刃に取り込む、禁断の技。使いたくはないが、今は使わなければならない。
「お前の命、借りるぞ」
 ディスペアは呟いた。

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