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第5節 過去を斬る


 寒月は明日香を睨んだ。明日香は無言で時雨を構えている。脳裏に閃くひとつの方法。明日香を助ける切り札。しかし、その方法には致命的な欠陥がある。
「……それには時間が必要だ。三十秒……十五秒でいい――」
 その時間を明日香が与えてくれるはずがない。
 刹那――
「明日香ああああああッ!」
 土煙の影から、カラが飛び出してくる。右足は治っていた。明日香の顔面を狙い、右腕を突き出す。時雨が閃き、腕が斬り落とされた。しかし、カラは最初から右腕を斬られること覚悟していたらしい。
 左拳が、真下から明日香の顎を捕らえる。明日香が殴り倒された。
「まだ、私は終わっていない……!」
 斬られた腕を拾いながら、カラが呟く。
「そうですね。僕たちは、まだ動けます」
 傷だらけの身体のまま、ヴィンセントが歩いてくる。
 その二人を見つめ、寒月は叫んだ。
「頼みがある! 十五秒……十五秒だけでいい。明日香を足止めしてくれ!」
「十五秒ね。結構辛いけど、分かった」
「何か考えがあるんですね。期待していますよ」
 カラとヴィンセントが、明日香に向かっていく。
 生命の水を懐にしまい、寒月は紅の刃に素早く左手の指を走らせた。指先で記号のような文字を書き込んでいく。文字は淡い光となって刃に吸い込まれていった。書き込むべき文字の数は、八十七。
 刃に文字を刻み込みながら、寒月は心中で呟いた。
(俺は、無明を殺した。そして、その死に誓ったんだ。命を懸けてでも明日香を守ると。だが、現実はどうだ? 俺は明日香を守るどころか、殺そうとしている)
 時雨が、ヴィンセントの出した大鎌の刃を斬り落とす。
(俺は、やらなければならない。俺は明日香を助ける。これは裁定者の命令に反することだ。命令に反すれば、どうなる? 前例はない。命令違反で命を狙われるのか?)
 カラの三連続蹴りが明日香を後退させた。しかし、その足が斬られる。
(知ったことではない。俺は明日香を助ける。他に何もいらない)
 身体を斬られながらも、ヴィンセントが明日香の顔面に魔法を叩きこむ。
(俺に足りないのは、心の強さだ! しかし、それは明日香を殺す覚悟ではない! 命令に反しても、明日香を助ける覚悟だ!)
 カラとヴィンセントが倒された。
 明日香が向かってくる。身を守るものはない。
(まずい……五文字足りない!)
 ここで攻撃を食らえば終わりだ。ヴィンセントとカラの努力が無駄になってしまう。誰でも構わない。脈絡などいらない。一秒だけでいい。明日香を足止めしてほしい。
 その願いは――叶った。
「があああッ」
 明日香に眼前の瓦礫が吹き飛んだ。破片が飛び散り、土煙が舞い上がる。
 瓦礫を押しのけ、姿を現したのは、赤黒い服を着た金髪の男だった。身体はずたずたに斬られ、服はぼろきれのように破れ、土と埃に汚れている。
(違う……)
 その男は、赤黒い服を着ているのではない。白い服が血で赤黒く染まっているのだ。元は白い服をまとっていた金髪の男。それは――
「ジャック……?」
「ア、ス、カ、ア、ア、ア、ア!」
 明日香に殺されたと思っていたが、ジャックは死んではいなかった。瀕死のまま気絶していたのだろう。さすが、特級執行者と言うべきか。しかし、正気ではない。
 ジャックは掴みかかるように、明日香に飛びかかり。
 一太刀で斬り倒された。それで一秒の時間が経つ。
(敵が、こんな所で俺を助けてくれるとはな)
 寒月は紅に最後の一文字を書き込んだ。封印の文字が完成する。
「止まれ、明日香!」
 寒月は吼えた。全てを凌駕する意志を、明日香に叩きつける。覚悟はできた。意識が冴え渡っている。迷いはない。恐れるものは何もない。
 その気迫に圧されてか、明日香が足を止める。
 寒月は懐から生命の水を取り出した。口で栓を抜き、中身の水を紅にこぼす。水は鍔元から切先まで流れていった。その刃を鞘に納める。
「お前の父親、無明は俺が殺した。それを否定するつもりはない。お前が俺を復讐するのも止める気もない。それは、当然の権利だ」
「…………」
「しかし、俺も無明の死に誓った。お前を守ると。だから、俺は命を懸けてでもお前を守る。それについて文句は言わせない」
 寒月は紅の柄に手をかけた。腰を落とし、身体を前に傾ける。
「決着をつけよう。お互いの必殺技、居合でな」
「…………」
 明日香も時雨を納刀した。柄に手をかける。
 寒月は微笑んだ。半妖の力を封じるには、身体の中に封印を刻み込まなければならない。しかし、ただ刻み込むだけでは明日香は死ぬ。傷は治さなければいけない。そのために生命の水がある。紅に書き込んだ封印の文字を明日香の身体の中に刻み込み、生命の水で傷を治療する。これで、明日香を助けられるはずだ。
 睨み合いは一瞬。
 飛び出す。
「朝霧流居合――」
「天翔流居合――」
 寒月は目を見開いた。凍て付くような戦慄が、全身を駆け抜ける。
 視界が暗くなり、何も聞こえなくなった。しかし、周囲で起こる出来事は、むしろはっきりと感じ取れる。全感覚が極限まで研ぎ澄まされていた。流れる空気、飛び散る砂粒、舞い上がる土煙、明日香の殺気。全てが手に取るように分かる。
「一閃」
 寒月と明日香は右足を踏み込んだ。アスファルトの地面が砕ける。
 しかし。
(遅い――)
 何もかもが遅い。自分の動きも、明日香の動きも。時間が異常なまでに緩慢になっていた。一瞬が、一分……一時間に感じられるまでに。意識が限界まで加速している。
 筋肉の収縮、身体の回転、踏み込み、鞘走り。全てが遅滞なく重なり、相乗し、最大の速度を生み出す。抜き放たれた二本の刃は、音速をも超えていた。閃光が空を走る。
(剣気を、絞る!)
 時雨と紅が、触れた。同じものは二つ、違うものも二つ。
 同じものは、力と速さ。
 違うものは、間合いと、剣気の鋭利さ。
 それが、決定的な差となる。
 紅が――
 時雨を斬った。紅の切先が明日香の前を通り過ぎる。
 寒月の目的は、最初から時雨の刀身だった。初撃で武器を破壊してから、間髪容れずに放つ次撃で相手をしとめる。それが、天翔流居合の極意。
 寒月は振り抜いた紅を逆手に持ち替え、納刀するように腰溜めに構えた。左足を前に踏み出し、真の間合いへと飛び込む。左から右へ向かう力が、跳ね返るように右から左へと向かった。
「飛翔」
 拳を振り上げるように、紅を斜めに斬り上げる。が。
 明日香が、斬られた時雨を突くように振り下ろしてきた。方法は違うが、明日香も自分と似たようなことを考えていたらしい。時雨は寒月の頭を狙っている。
 その速さは、寒月よりも、上。
 居合では勝てた。だが、真の勝負は――
(負ける!)
 しかし、千分の一秒の間を置いて。
(俺は、負けられない!)
 意識の速度が、限界を超えた。
 千分の一にも満たない時間の中で、思考を閃かせる。
 寒月は右足を折り、地面に膝をついた。体勢が半分崩れる。
 ―――!
 赤刃が閃いた。
 紅を振り抜き、寒月は地面に倒れる。
 沈黙はどれくらいだっただろうか。
「俺は……」
 生きている。体力はほとんど残っていないが、生きている。強引に体勢を変えたため、バランスを崩したらしい。おかげで、時雨は頭を外れていた。今は右肩を貫いている。
 寒月は肩から時雨を引き抜き、起き上がった。
「刀は心を斬るためにある。誰が言ったか知らんが、至言だな……」
 明日香はゆっくりと後ろに倒れていく。気を失ったらしい。身体を斜めに斬られたが、生命の水の効果で傷は消えていた。半妖の力は、感じない。完璧に封印された。
 斬られた時雨の先が、どこか遠くへ飛んでいく。
 寒月は紅を鞘に納めた。

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