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第6節 取引の対価


 頭が重い。
 視界は霞んでいた。
 意識も朦朧としている。
 思考だけが勝手に動いていた。
 ぼんやりと思い出す。工事現場で眠ろうとした時に、ジャックとチェインが一緒に現れた。ヴィンセントとカラがチェインと戦い、寒月はジャックと戦おうとした。しかし、ジャックに寒月が無明を殺したのだと告げられ、自分はその場を逃げ出した。
 逃げ出して、捕まった。
「ここは……」
 囁きながら、明日香は目を開ける。そこは、何もない部屋だった。元は会社かなにかの一室だったらしい。床には、四角い跡が残っている。窓からは、いくつかのビルの壁面が見えた。ここは市内のどこかにあるビルの一室らしい。
「起きたか」
 聞こえてくる声。
 気がつくと、左斜め斜め前に金髪の男が立っている。白い服は、血で赤く染まっていた。特級執行者ジャック・ファング。右手には、鞘に納められた時雨を持っている。
「ジャック!」
 叫んでから、明日香はようやく自分の置かれた状況を把握した。
 木の椅子に鎖でがんじがらめに縛られている。無意味な努力だとしりつつも、身体を動かしてみるが、びくともしない。
「あんた、一体何を考えてるの!」
 寒月の話では、ジャックは半妖の力を危険視している。半妖の力が覚醒する前に殺そうとしていたはずだ。だが、ジャックは自分を拘束するだけで殺してはいない。
「あなたを殺すことよ」
 その声は背後から聞こえてきた。
 赤いドレスをまとった女が、ゆったりとした動作で明日香の前に足を進める。全身から放たれる妖しさと剣呑さ。鎖の上級妖魔チェイン。
「あんた!」
「久しぶりね、明日香。といっても、半日も経ってないんだけど」
 口元に人差し指を当てて、微笑みかけてくる。
 明日香は混乱したように二人を見やった。
「何で? 何で、あんたたちが一緒にいるの!」
 その不自然さは、妖魔や執行者の事情に詳しくない自分でも分かる。ジャックとチェインが一緒にいるのは、明らかにおかしい。
「何で執行者と、そ……そ、く、ま? ええと――」
「……即時抹殺命令」
「そう、それ。即時抹殺命令が出てる妖魔が一緒にいるわけ? 執行者は、即時抹殺命令が出てる妖魔を見つけたら、その場で殺さなきゃならないんじゃないの!」
 今日の昼、現に寒月は、チェインを殺そうとしていた。
 しかし、この二人はお互いに敵対するでもなく、ここにいる。執行者であるジャックは、チェインに殺気の欠片すら向けていない。むしろ、友好的にも見えた。
「取引したのよ」
 チェインが答えてくる。
「わたしは、あなたの力が欲しい。ジャックはあなたを殺したい。でも、お互い、一人じゃ寒月たちに歯が立たない。利害が一致しているわ」
「それで、私が取引を持ちかけた。即時抹殺命令の保留、体力の回復、君を殺して力を奪うことを見逃す。これを条件に、チェインに協力を頼んだのだ。邪魔なヴィンセントとカラをその場から引き離すように。私が寒月と一対一になれるように」
 書類でも読み上げるように、ジャックが続ける。
 明日香は薄笑いを浮かべながら言った。
「それって、やけにチェインに有利な取引じゃない? ジャック……あんた、チェインを出し抜いて何か企んでるんじゃない?」
 相手の動揺を誘うつもりだったのだが、効果はなかった。
「それは邪推だな。私は、アスカ――君が死ねばそれでいい。君に眠っている力は、あまりにも強大すぎる。もし覚醒し暴走すれば、執行者全員が君を止めるために戦うことになるだろう。それを回避できるのなら、この程度の代償は、安い」
「ねえ。お喋りは、このへんにしておかない?」
 微かに苛立ちのこもった声で、チェインが割り込んでくる。
 その右手には、包丁のような大型の短剣が握られていた。
「わたしは、早くこの子を殺して、力をいただきたいんだけど」
「ああ。分かってる」
 ジャックが退くと、チェインは明日香の目の前に短剣をかざしてみせる。銀色の刃先は凶悪な光を灯していた。
「これからわたしはあなたを殺すけど、恨まないでね。痛みを感じる間もなく息の根を止めてあげるから、その点は安心してちょうだい」
 残酷な笑みを浮かべながら、短剣を振り上げる。
 それを見上げながら、明日香は歯を食いしばった。自分はこんな所で殺されるわけにはいかない。生存本能が全力で告げているが、身体は動かせない。
「さよなら」
 無慈悲な一言とともに、短剣が振り下ろされる。
「!」
 明日香は反射的に目を閉じた。

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