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第4節 非日常の始まり……


 大学の講義は、何事もなく終わった。残りの講義はひとつだけである。
 教科書やノート、筆箱などを手提げ袋にしまってから、明日香は教室を後にした。いつでも時雨を抜けるように身構えつつ、こっそりと廊下を眺める。だが、妖魔らしき気配は感じられない。
「試し斬り、したいのに……」
 独りごちつつ、階段を上っていく。
 最後の講義は、数学である。教室は4021室。
 白い扉を開けて、明日香は教室に入った。見慣れた教室だが、一応観察しておく。部屋の大きさは標準。三人用の机が三列並んでいる。教室には、数人の学生がいて、気ままにお喋りをしていた。
 妖魔らしき人影はない。が……
「用心に越したことはない」
 自分に言い聞かせるように呟きつつ、いつもの席――中央の列の前から四番目の机へと歩いていく。移動式の三人用机。その右側に座る。
「あなたがアクセサリなんかしてるなんて。珍しいね」
 隣から声をかけられた。
 見やった先にあったのは、眼鏡をかけた真面目そうな顔立ち。友人の裕美である。外見通りに真面目な性格ではあるが、どこか大雑把な部分もある。
「あたしも、たまにはオシャレするよ」
 腕輪を見せながら、明日香は時雨を机に立てかけた。教科書とノートを取り出し、机の上に置く。時計は二時五十七分を示していた。授業が始まるまで、あと三分ある。
「そんなことより。あなた、いい加減学校に木刀なんか持ってくるのやめた方がいいよ。そのうち、先生に没収されるから」
 淡白な口調で言って、裕美は時雨の入った袋を掴んだ。
「……? あれ、これ、何だか重いけど」
 呟きながら、袋の口を開く。
「あ! ちょっと待って……!」
 慌てて手を伸ばすが、遅かった。
 袋の口から時雨の白木の柄が顔を覗かせる。
 裕美は袋の口を閉じ、無表情の顔を近づけてきた。そこはかとなく、怖い。明日香にだけ聞こえるほどの小声で言ってくる。目元に手を当てて、
「あなた……とうとう、踏み入れてはならない領域に足を踏み入れてしまったのね。いくら格闘マニアでも、真剣を持ち歩くのは立派な犯罪よ……。おとなしく自首してちょうだい。正直に話せば、情状酌量の……」
「ええと、ね……これには色々わけがあるんだよ――ほら」
 あたふたしながら、明日香は視線を泳がせた。いくらなんでも、妖魔に命を狙われています、と正直に言うわけにはいかない。言っても嘘だと思われるだろう。
 何とか言い訳を探し、自分でもよく分からないことを口走る。
 半ば噛み合わない言い合いをしているうちに、
「授業を始めます」
 授業開始のチャイムとともに、教壇に立った先生の声が響く。
 明日香と裕美は言い合いをやめ、声に引っ張られるように前に向き直った。
 ホワイトボードを背景に、背広を着た若い男が立っている。
 学生の間に、小波のようなわざめきが走った。
「あれ?」
「大村先生じゃない」
 数学の授業を受け持っているのは、五十過ぎの白髪のきれいな大村義之という先生である。だが、今教壇に立っている先生はどう見ても大村先生には見えない。
 見知らぬ先生は、親しげな口調で言ってきた。
「大村先生は急病で欠席してしまったので、今日は僕が代理で授業をします」
 それを聞いて、ざわめきが消えていく。
 静かになるのを待ってから、先生は教卓の上に置いてあった出席簿を掴んだ。
「では、出席を取ります。朝霧明日香君」
「はい」
 明日香は素直に返事をする。自分は名前順で並べると、一番先に来るのだ。大学では、二番以下の順番で呼ばれたことはない。
 しかし、先生は頭をかくと、
「すみませんが、ちょっと立ち上がってくれませんか」
「いいですよ」
 頷いて、明日香は席から立ち上がった。しかし、時雨を掴むのを忘れてはいない。確信はないが、この先生はチェインの部下の妖魔なのだろう。
 そして――その推測は当たっていた。
「では、死んでください」
 言うなり、背後から細長い筒のようなものを取り出す。
「ショットガン!」
 明日香は叫んだ。いくら何でも、これは予想していなかった。準音速で飛んでくる散弾を避ける技量など持っていない。刀で防御するのは論外だった。
 反射的に目を閉じる。
 ドゥン!
 銃声が響いた。その音に、教室のあちこちから悲鳴が上がった。
「?」
 しかし、自分は生きている。
 目を開けると……
 黒い人影が、先生の姿をした妖魔の前に立ちはだかっていた。天上に穴が開いている。散弾が直撃したのだろう。ショットガンの銃口は真上に向けられていた。
「寒月!」
 黒い人影――寒月は跳び退く。コートがはためいた。明日香の着いている机の上に着地すると、コートの内側から二丁の銃――疾風と烈風を取り出す。
 妖魔もショットガンを構え直すが、寒月の方が早い。
 銃声が響き、妖魔の身体に十数個の穴が穿たれた。ショットガンが床に落ち、妖魔が崩れ落ちる。寒月は二つの銃を懐に収めた。脅威は去ったらしい。
 だが、立て続けに響いた銃声のせいで、教室内はパニックと化している。
「明日香!」
 寒月が叫んだ。
 机から降りると、右手だけで机を軽々と持ち上げる。並外れた膂力……。
 顎が外れそうなまでに口を開いている裕美の前で、寒月は持ち上げた机を教室の後ろにある窓めがけて投げつけた。学生たちの頭をかすめるように、緩い放物線をえがいて飛んでいった机が、窓枠ごとガラスを打ち破る。
 砕音ともに、ガラスの破片と机が落ちていった。
「どうするつもり?」
「逃げる」
 答えた時には、明日香は寒月の脇に抱えられている。
「え?」
 状況を理解する前に、寒月は駆け出していた。
 その先には、ガラスのなくなった窓がある。
「えー!」
 寒月の足が窓枠を捉え――
 跳んだ。

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