Index Top 厄神夜光 |
|
第2章 厄神、居着く |
|
アパートのドアを開け、狭い玄関へと入る。 「ただいま」 と言ってしまうのは、ただの癖か。 夕方六時過ぎ。大学の講義を終え、友人たちと少し遊んでから、そのまま帰宅。いつもと変わらぬ、ありふれた一日の終わりだった。 「よっと」 奏太に肩車をしていた夜光が、床に飛び降りた。人間の半分くらいの八十センチほどの身体。そのためか、猫を思わせる身軽さである。 穿いていた木の下駄を脱ぎ、小さな室内用サンダルに履き替える。 ぱたぱたと部屋を横切り、床に置いてあった座布団に腰を下ろした。二畳ほどの絨毯の上に置かれた座布団と卓袱台。 「やはり家は落ち着くな」 両足を伸ばし、両手を付き、息を吐き出している。まだ一日も経っていないのに、我が家のようにくつろいでいた。 「一応僕の下宿先なんだけど」 奏太も部屋に移動する。 奏太に顔を向け、夜光がにやりと笑った。からかうように、楽しそうに。 「しばらくはアタシの家でもあるけどな」 「本当に居着く気だな」 卓袱台の反対側に座り、奏太は苦笑いをこぼす。 そこそこ偉い神様に言われて、奏太に宿った厄喰いの魔物を観察する。また、奏太に厄喰いの魔物の制御方法を教える。それが夜光の仕事だった。 夜光はぱたぱたと手を振ってみせた。 「安心しろ。ちゃんと家賃は払うぞ。厄喰い観察の協力金と含めて、一ヶ月三万円だ」 「高いような安いような、びみょーな金額だな。月三万円はありがたいけど」 学生にとっての三万円はかなりありがたいものである。奏太自身が特に無茶な事をする必要も無いため、月三万円はかなり破格の金額だろう。 「そういえば」 ふと思い出し、奏太は呟いた。 「朝から何か集めてたけど。あれ、何してたんだ?」 今日一日夜光は奏太の側にいた。特に変なことはしていないが、気になることがあった。時々何もない場所にふと手を伸ばし、何かを掴んで小さな巾着に入れていた。見えない何かを集めるような仕草である。 夜光が腰に付けていた小さな巾着を取り出した。 「これか?」 「うん」 赤い袋に黒い紐という禍々しい色遣いの巾着袋。隅に「厄」と一文字記されている。色合いを覗けば普通の巾着袋だ。朝は持っていなかったが、いつの間にか付けていた。 夜光は袋の口を開け、右手を中に入れながら、 「まぁ、どうという事も無いもんだ。と――」 不意に床を蹴り、卓袱台の上へと跳び上がった。黒い髪の毛を翻しながら、奏太のすぐ目の前に着地する。まるで猫のような俊敏性だ。 そのまま、巾着袋から右手を抜き出し、奏太の口元目がけて突き出す。 「むぐ!」 口の中に何かを押し込まれ、奏太は呻いた。 微かに甘みを纏った、綿菓子の切れ端のような何か。しかし、実体を持つものではなかった。まるで空気を綿菓子のように緩く固めたような、存在の希薄さ。 瞬く間に口の中で溶けて―― ごくりと、奏太はそれを飲み込んでいた。 「……なんだ今の?」 口元を押さえながら、卓袱台の上に座っている夜光を見つめる。奇妙な味だった。今まで食べた普通の食べものとは、まるで違う食感と味。 「そこらで拾った小さい厄だ」 あっさりと、夜光は答えた。 奏太は慌てて両手で夜光の肩を掴む。 「待て待て……。僕、それ食ったのか? そんなもん食べて平気なのか?」 焦る奏太に対し、夜光は平然としていた。両腕を広げ、気楽に笑ってみせる。 「生身の人間にとっちゃ、ただの淀んだ空気でしかないけどな。これを食べられるのは、日本中探しても、お前くらいしかいな……いや、結構いるか。ともかく、お前がこの小さい厄を食べるって事は、厄喰いが食べるってことでもある」 黙って手を引っ込める。 奏太の中にいる厄喰いの魔物。コケのように大人しく、危険度は非常に低い。周囲に漂う厄を適当に食う存在。今までは奏太の知らぬうちに、厄を食っていた。だが、今は違う。夜光によって意図的に厄を食べさせられた。 「美味しかったか?」 探るように目を細める夜光。 奏太は舌で口の中を舐めてみる。味は残っていないが。 「美味しい……かな? 不味くはない……」 「じゃ、しばらく厄の味を覚えてくれ。食後にひとつ食うだけでいい」 巾着袋を見せながら夜光が説明した。食後にひとつ厄を食べる。まるで薬を飲むような感覚だ。しかし、厄を食べるという行為が薬と同じなのかは分からない。 胡散臭げな表情を見せる奏太に、夜光は指を左右に動かし。 「厄喰いに任せて下手に拾い食いするよりも、安全だぞ?」 「そうかもな」 半信半疑という口調で、奏太は応えた。 夜も八時を過ぎ。 ふとレポート用紙に走らせていたシャーペンを停め、奏太は顔を上げた。小さな台所の横にある、浴室。脱衣所の扉が開き、夜光が出てくる。 「ふぅ、いい湯だった」 身体にバスタオルを巻き付け、頭にもタオルを巻いていた。左目を隠していた前髪も頭の上にまとめている。左右の目で色が違ったり、目付きが違ったりという差はない。左目を隠しているのは、そのようなファッションなのだろう。 身体が小さいため、バスタオルは端が床に付いている。 「何を見ている?」 奏太に向き直り、夜光が目を細めた。 思わず奏太は息を止める。 服を着ている時には気付かなかったが、バスタオルを押し上げる胸の膨らみは大きかった。幼女のような身体の大きさだが、形はそれなりに成長した少女のそれである。 「ふふん。アタシはこう見えても身体には自信あるんだぞ?」 両手を胸の下に差し入れ、胸の膨らみを強調するように持ち上げて見せた。肩から胸の脇まで続く曲線。バスタオルの縁から見える胸の谷間。 「多少触るくらいなら許してやらんこともない」 良いながら、バスタオルの裾を持ち上げ、細い足を艶めかしく伸ばしてみせる。白く滑らかな肌だった。思わず魅入ってしまいそうなほどの美しさ。 「そういう冗談はやめろ……」 ジト目で睨みながら、奏太は呻いた。 腕を崩し、夜光は手を動かす。 「別に今襲いかかったとしても、アタシは文句は言わないから安心しろ」 本気なのか冗談なのか分からない事を言いながら、冷蔵庫の前まで移動した。 冷蔵庫の扉を開け、中身を見回してから、牛乳パックを取り出す。五百ミミリットルのパックだ。奏太なら片手で持てる大きさだが、夜光が片手で持つのは難しい。 両手で牛乳パックを持ち、そのまま身体を傾ける。 ごくごくと中身を飲み干してから、 「ふはぁ!」 満足げに息を吐き出した。 「やっぱ風呂上がりの牛乳は最高だな!」 |
15/1/3 |