Index Top 第2話 雨の降る前に

中編 静かな夜更け


 しとしとと、雨粒が地面を叩く音が聞こえていた。
 窓の外には夜の闇が訪れている。部屋には蛍光灯が付いているが、外からは静かな闇が差し込んでいた。夜の八時半。夕食も食べ終わり、風呂にも入った後だった。
 夕方から降り出した雨は、今も降り続けている。
 慶吾は座布団にあぐらをかき、膝に沙雨を乗せ、小さな櫛でその黒髪を梳いていた。
「きれいな髪だな」
 長く艶やかな黒髪。しっとりと水気を帯びているような滑らかさ。指で触れてみると、絹のような上品な手触りだった。人間の髪の毛とは似ているようでかなり違う。
「ふふ、ありがとう」
 肩越しに振り返り、沙雨が微笑んだ。少し照れたように。
 青い縁取り布のある白衣と、紺色の行灯袴。寝る時も同じ服を着ている沙雨。部屋の洗濯機で洗濯し、干しておいたため、汚れなどはない。沙雨曰く強力な術で保護されているので滅多な事では汚れないらしい。さすがに下着は毎日替えているようだが。
 慶吾は右手で沙雨の頭を撫でる。初めて会った時から気になっていたこと。
「失礼な事訊くかもしれないけど、沙雨って何歳なんだ?」
「一応未成年ではないから安心しろ」
 楽しそうに答える。
「大体お主と同い年だ。三十年は生きていない。もっとも、アタシのような神には年齢はあまり意味をなさないのだが。生まれた時からこの年格好だからな」
 手で自分を示し、そう言ってきた。
 見た目は十代半ばの少女である。言われてみると大人びいた言動を取る事が多い。逆に、子供っぽい部分も多いように思える。生まれた時から今と変わらぬ年格好。人間の常識とは違う時間を生きているのだろう。
「さすがは神様か」
 髪を梳き終わり、慶吾は櫛を差し出した。
 沙雨は櫛を受け取り、上衣の袖へとしまう。
「さて、寝るぞ、慶吾」
「もう寝るのかよ。まだ八時半だぞ」
 慶吾は時計を指で示す。土曜日の夜の八時半。普段ならまだ起きている時間だ。レンタルしたDVDを見たり、ネットをうろついたり、時々本を読んだり。雨が降っていなければ、近所のコンビニなどに出掛けていたかもしれない。
 沙雨は目を細め、妖しく微笑んだ。
「それは言葉の綾というものだ。今宵は寝かせはせん」
 ぺしっ。
 慶吾の人差し指が、沙雨の額を打つ。
「いたい……」
 額を両手で押さえながら、沙雨が目元に涙を浮かべた。
「お主はウブだな。分かってはいたが」
 小さく笑いながら、そんな事を言ってくる。
 その台詞は聞き流し、慶吾は一度息を吸いこんだ。沙雨の肩に左手を添え、両足の下に右手を差し込む。小さな身体を両手で抱え上げながら、その場に立ち上がった。思ったよりも軽い。いわゆるお姫様だっこの姿勢である。
「ほほう」
 沙雨が好奇心に目を輝かせながら、辺りを見ていた。お姫様だっこをされるのは、今回が初めてなのだろう。子供のような喜びようだった。
 沙雨を抱えたまま、慶吾はベッドに足を進める。
「沙雨って本当に小さいよな。赤ん坊抱いてるみたいに感じるよ」
「アレだ。最近流行の省エネ。小型軽量高性能というヤツだ」
 得意げに人差し指を持ち上げる沙雨に、慶吾は眉根を寄せた。
「小さくすればいいってもんじゃないとは思うけど。遊びを削るから全体的な性能は落ちるし、強度も落ちる。必要な部分まで削るのは、あまり感心できないよ」
「……仕事で何かあったのか?」
 冷や汗を浮かべながら、指を下ろす。
「ま、色々と」
 誤魔化し笑いをしながら、慶吾は答えた。
 沙雨を抱えたままベッドに腰を下ろし、布団をめくる。一度沙雨を膝に乗せてから、右手を伸ばして蛍光灯の紐を引っ張り、電気を消す。常夜灯の照らす薄暗い部屋。
 沙雨を左手で抱えたまま、慶吾は布団に潜り込み、身体に布団を掛ける。
「布団というものは心地のよいものだ」
 慶吾に背を向けたままの沙雨が、もぞもぞと動いた。身体の向きを変えようと思ったようだが、途中で止める。苦笑するように肩を揺らすのがわかった。
「沙雨はあまり布団で寝ないようだけど」
 両手でそっと沙雨を抱きしめる慶吾。人間とは違う小さく細い身体。ぬいぐるみを抱いているようでもある。しかし、しっかりと暖かさと柔らかさを持っていた。
「ああ。アタシは野宿とかも多い生活だ。こうして暖かい布団にくるまれる機会もない。それに、人と一緒に寝るなんて、何年ぶりだろうか?」
 沙雨が慶吾の腕に自分の手を添える。
 しとしとと雨の音が外から聞こえてきていた。車が道を走る音。雨の夜は静かだった。オレンジ色の常夜灯に照らされた暗い室内。テレビやレコーダー、パソコンのランプが光の点となって浮かび上がっている。
 慶吾は一息ついてから、口を開いた。
「沙雨が望むなら、ずっとここにいてもいいぞ。俺も独り暮らしだけど、もう一人増えたところで、そう変わることもないだろうし」
「ふふ……」
 沙雨が微かに笑う。
「好意だけ頂いておくよ。閑職とは言うが、アタシはこの仕事が好きだからな」
 日本中を旅しながら、空の気を記録する仕事。自分で歩いたり公共機関をタダ乗りしたり、宿を貸してもらったり野宿したり。話を聞く分には楽しそうだが、実際にそのような日々を過ごすのは大変だろう。
 しかし、沙雨は自分の仕事にやりがいと誇りを持っているようだ。
 沙雨が肩越しに振り返ってくる。
「とはいえ、その言葉はしかと覚えておく」
「ありがと」
 慶吾はそっと沙雨の頭を撫でた。
 頭を撫でられ、沙雨が身体から力を抜く。慶吾は頭を撫でていた手を放し、両腕で沙雨の身体を抱きしめ、自分の胸元に引き寄せた。
「やっぱり、沙雨って抱き心地いいな。大きさも暖かさも。抱き枕みたいだし。こうして抱えて寝たら、ぐっすり眠れそう」
 両目を閉じ、慶吾は笑う。小さく暖かく柔らかい沙雨。このまま沙雨を抱き枕代わりにして寝たら、朝まで安眠できるだろう。そんな確信があった。
 しかし、沙雨が口を開いた。
「それは面白いかもしれぬが、抱きかかえて眠るだけでは、物足りない」
 肩越しに振り向いた黒い瞳には、妖しげな輝きが映っていた。食事を前にした子供のような喜び、と表せばいくらか聞こえはいいだろう。
「まだ夜九時にもなっていないのだ。これで『おやすみなさい』などと、子供のような事は言うまいな? 今宵は眠らせぬと言っただろう? 夜はまだこれからだ」
「元気だな」
 慶吾は思わず口元を緩める。呆れたように、感心したように。
 沙雨は自分の手を持ち上げた。緩く広げた手の平を見つめながら、
「これでも神様だからな。お主の欲望くらいは受け止めてやる」
「ではお言葉に甘えさせていただきますよ」
 慶吾はそう答えた。

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11/9/12