Index Top 第2話 雨の降る前に

前編 雨神の少女、再び


 窓から外を見ると、灰色の雲が空を覆っていた。灰色と白の濃淡の見える低い雲。雲の種類は乱層雲だろう。ゆくりと空を移動している。
「雨降りそうだな」
 多田原慶吾はぼんやりと外を眺めていた。
 トントン。
 音は突然聞こえてくる。ガラス窓を叩くような音。大きな音ではないが、はっきりと耳に入ってきた。誰かが外から窓を叩いたらしい。
「ん?」
 窓の外に誰かがいる。
 既視感めいたものを覚えながら、慶吾は窓を開けた。
 ベランダに置かれた、靴脱ぎ台。そこに小さな少女が立っている。
「よう。久しぶりだな、慶吾。元気にしていたか?」
 身長は五十センチくらいだろう。見た目は十代半ばくらい。長い植物の葉を思わせる長い黒髪と、落ち着いた光を映す黒い瞳。紺色の縁取りのなされた白衣に、紺色の袴という出立である。色合いは違うものの、巫女服を思わせるような衣装だった。足は裸足に下駄を履いている。
「沙雨?」
 慶吾は驚きつつも、少女の名を口にする。
 一ヶ月くらい前に、慶吾の前に現れた雨神の少女。日本中を旅しながら、空の気の流れを記録していると言っていた。環境調査のようなものらしい。
 沙雨は満足げに微笑んで、
「覚えていてくれたか。とりあえず部屋に上がらせてもらえないだろうか? こんな所で立ち話も何だし、そろそろ雨も降りそうだ」
 と、振り返り灰色の空を見上げる。
「別に構わないけど」
「感謝する」
 沙雨は穿いていた下駄を脱ぎ、フローリングの床まで一足に跳び上がった。どこからとなく小さなサンダルを取り出すと、それを床に起き、脚を通す。
「沙雨はうちに何しに来たんだ? 環境調査みたいな事をしてるのは聞いてるけど、俺の所に来る理由あるのか? 前に何か忘れ物してたとか」
「せっかく知り合ったのだからな。顔見せに来た。あと、今晩泊まる場所が欲しい」
 両手を腰に当て、沙雨は慶吾を見つめる。
 慶吾はその場に屈み、視線を沙雨に合わせた。慶吾が屈んだ状態でも、視線は沙雨の方がやや低い。慶吾を見つめたまま、どこか楽しそうな顔を見せる沙雨。
「泊まっていくのか」
「安心しろ。ちゃんと宿賃は身体で払う!」
 右手で自分の胸を叩く。
 慶吾は左手で顔を押さえ、ため息をついた。宿代は身体で払う、沙雨の台詞が何を意味するか。容易に想像が付く。そして、その結果も容易に想像がついた。
 沙雨の顔の前に右手を突きだし、鼻先に軽くデコピンを決める。
「いたいぞ……」
 両手で鼻を押さえ、沙雨は一歩後退る。
 目元に薄く涙を滲ませ、睨み付けてきた。
「こないだは、翌日動けなくなるくらい絞られたような記憶があるぞ」
 慶吾は軽く額を押さえる。
「でも、あの時はアタシの精を取り込んだのだ。しばらくは体調はよかっただろう?」
 得意げに笑い、沙雨が見上げてくる。
 以前沙雨と交わった時は、翌日の昼くらいまでまともに動けなかった。仕事があったら確実に休む羽目になっていただろう。しかし、翌日から一週間くらいは調子が良かった記憶がある。沙雨は自分の精を渡したと言っていた。
 もそもそと上衣の袖に手を入れる沙雨。
「そうそう。お主に土産持ってきた。京都に寄った時に買ったものだ」
 取り出したのは、高級そうな紙の箱である。袖の大きさとは合っていないが、気にしてはいけないのだろう。小豆色の箱に生八つ橋と書かれている。
「八つ橋か。美味しいんだけど、なかなか売ってないんだよな、ありがとう」
 笑いながら手を差し出すが。
 沙雨はひょいと箱を引っ込めた。
「というわけで、お茶」


 カーペットの上に置かれた卓袱台。
 沙雨が持ってきた生八つ橋と湯飲みが並んでいる。
 慶吾は八つ橋をひとつ取った。三角形の素地の中に餡子が詰まっている。端を囓ってみると、上品な甘さが口に広がる。
「沙雨って旅してる間は、宿とかどうしてるんだ?」
 慶吾の正面には、箱を椅子に沙雨が座っていた。
 右手を伸ばして生八つ橋を掴み、口に放り込む。身体に比べると大きい和菓子を、苦もなく一口にしていた。人間サイズのものは食べ慣れているのかもしれない。
 お茶をすすり、沙雨は頷く。
「うむ。大体神社仏閣や土地の偉いさんに頼んで、寝場所を借りているな。神様は色々頼れる相手が多いからな。後は、野宿が多いかな。おおむねバックパッカーのような生活をしている。国外に出ることは無いが」
 リュックひとつの低賃金な旅行者。沙雨の移動も似たようなものだろう。空の気を記録しながら、日本中を巡る旅。公共機関はただ乗りしているらしいが。
「大変そうだな」
 沙雨の生活を想像し、慶吾は唸った。
 しかし、沙雨は気楽に笑って、次の八つ橋を手に取る。
「お主のように人間ならば大変だが、アタシみたいな専門の神なら結構楽だ。身体がそういう風に作られているからな」
 何故か得意げにそう言ってみせた。
 身体は人間の三分の一程度、本人も大した神格は持っていないとは言っているものの、沙雨は神様である。人間とは仕組みが違うのだろう。
 そう納得して、慶吾は八つ橋に手を伸ばし。
「あれ……」
 箱は空っぽだった。二十個入っていたはずだが、今はひとつも無い。表面から落ちたきな粉が少しだけ残っている。
「お主がもたもたしているから、アタシがほとんど食べてしまったな」
 指を舐めながら、沙雨は澄ました顔を見せた。
 慶吾はふたつしか食べていない。
「八つ橋、好きなのに……」
「安心しろ。まだある」
 目蓋をおろし口元に悪戯っぽい笑みを浮かべ、沙雨は袖に手を入れた。ものを収納する術の類かもしれない。取り出した箱を、卓袱台に載せる。
「こっちは抹茶餡、こっちはチョコレート、こっちはクリームだ」
 生八つ橋が三箱。こちらは十個入りの小さなものらしい。しかし、三箱三十個の計算となる。京都で買ったと言っていたが、調子に乗って買いすぎたのだろう。
「全部食べるのか、これ?」
 湯飲みにお茶を入れながら、慶吾は沙雨を見る。
 いくら好きなものでも、これだけあるとさすがに全部食べるのは辛い。
 しかし、沙雨は自信たっぷりに笑ってみせた。
「二人で頑張れば、なんとかなるさ」

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11/9/7