Index Top 第3話 ルクの空腹

前編 美味しそう?


 街外れに使われなくなった見張り台がある。
 その東向きに一部屋。床や壁、天井も頑丈な圧縮煉瓦で作られている。元々、兵士の詰め所として造られた建物だ。その役目を終えた今は、一人の作家が居着いている。
 雨期にしては珍しく晴れた朝。窓から朝日が差し込んでいた。
 部屋の隅に、大きな鍋が置かれている。直径五十センチ、高さ五十センチほどの寸胴鍋だった。主に、スープを取ったり、長時間の煮込みなどに使われる円筒形の鍋。
 その蓋が、横にずらされた。
 が、落ちることはなく、内側に取り付けられた鈎が鍋の縁に引っかかる。
 鍋の中身は、青色で透明な液体だった。
 その液体が縦に伸び上がる。一度人間の背丈ほどの高さになってから、さらに人型へと近づいていく。横に伸びていく二本の腕。そのまま足が別れ、顔立ちが作られ、平坦な身体に凹凸が生まれ、十秒ほどで人間に近い形状へと変化した。
「朝になりましたネ。今日は晴れデスカ」
 緑色の瞳を窓の外に向けて、頷く。
 それは、青い女だった。見た目の年齢は二十歳ほどだろう。身長は百六十センチ強で、背中の中程まで伸びた髪と、女性特有の凹凸のある身体。もっとも、マネキンのようで作り物っぽい。全身が透明な青い液体でできていて、うっすらと向こう側が透けて見える。髪の部分は青緑で色合いが濃い。
 胸の奥には、核である赤い球体が浮かんでいる。
 わきわきと右手を握って開く。その手が、だらりと溶けた。
「最近、少し固まりが悪いデスね……?」
 皮膚筋肉織部分だけでなく、腕の内部骨格もいまいち柔らかい。全身の固定力が弱まっているようだった。雨期で湿気が多いせいかもしれない。
「えイ」
 溶けた組織を引き寄せ、右手を強引に固形化させる。
 人と同じような形になった右手を、握って開く。今度は問題無い。
「これで大丈夫デス」
 スライムの少女――ルクは鍋を跨いで外に出た。今まで寝床にしていた鍋を見下ろす。主であるサジムと一緒に金物屋で買ってきたのだ。
「それにしてモ、なかなかよさげな寝床デス。本来はこのように使うものではないと思いますけド、便利なのでヨシとしまス。やはり、料理器具って侮れませんネェ」
 無感情に感心してから、ルクは近くに置いてあったサンダルに足を通した。
 それから、クローゼットを開ける。中には、サジムに買って貰った服や、自分で買った服などが何着かしまわれていた。服が無くとも別に困らないが、普通に行動する時はなるべく人間のように振る舞うようにしている。
「今日は何を着ましょウ?」
 手短に考えてから、ルクは白いワンピースを取り出した。
 袖と襟口に両手と頭を通してから裾を下ろし、髪の部分を外に出す。これで、人間の少女っぽい見た目になった。髪や皮膚などを人間と同じように組み替えるのは、食事の支度を終えてからである。
「ご主人サマは下着付けろト言うんですけどネ……」
 両手で胸を掴みながら、呟く。
 ブラジャーやショーツなど、人間の付けるような下着は肌に合わない。付けていると妙に違和感があるのだ。半液状魔術生命体だからだろう。幸い外から見て分かるわけでもないので、ルクは下着は着けていなかった。
 さておき。
 時計を見ると、六時十五分。
「朝ご飯の準備を始めましょウ」
 そう頷き、ルクはクローゼットから取り出した白いエプロンに腕を通した。


 朝食を作り終え、ルクはサジムの部屋の前までやってきた。
 トントン。
 とノックをしてから、ドアを開ける。
「失礼しまス」
 そう断りを入れてから、部屋へと入った。
 返事は無い。返事があること自体が珍しかった。
 それなりに広い部屋である。しかし、置いてあるものは、本棚と机とベッドだけだった。窓から朝の光が差し込んでいる。時計を見ると、朝の七時二十分。
「ご主人サマ、朝ですヨ。起きて下さイ」
 ルクは眠っているサジムに近付き、声を掛ける。
 ベッドの上で、布団を半分はだけて寝ている寝間着姿の赤い髪の青年。ルクの主人であるノート・サジムだった。金銭的理由から粗食なため、身体は細い。しかし、ルクが栄養管理をしっかり行っているので、血色は良好である。
 目を閉じて、幸せそうに寝息を立てていた。
「ご主人サマー?」
 ルクはそう声を掛けながら、ふと視線を下ろした。
 ベッドから外に放り出されている右手。
 ルクは両手を伸ばして、サジムの右手を持ち上げた。余り外に出る事もなく、肌は色白である。日々ペンを動かしているため、腕の筋肉が微妙に発達していた。
 サジムは未だに寝息を立てている。
「………」
 サジムの右手を眺めてから――
 ルクはその右手を口に含んだ。
 サジムの手と指を味わうように、歯と舌を動かす。
 微かな汗の味と、サジムという人間の味を味覚が捉える。甘いしょっぱいという通常の味覚とは違うが、それは不思議なほど美味しかった。


「……うん?」
 ぼんやりと目を開け、サジムは疑問符を浮かべた。
 ベッドの傍らに立ったルク。飾り気のない白いワンピースという恰好で、上から白いエプロンを付けている。朝食を作ったので起こしにきたのだろう。それはすぐに分かった。
 しかし、分からないことがひとつ。
「ルク、何してるんだ?」
 サジムの右手を、ルクが口に咥えていた。お菓子でも食べるような気楽さで、手を口に入れている。甘噛みしつつ、舌で舐めているのか、指先がくすぐったい。
「むー」
 瞬きをするルク。
 手を咥えた状態では返事もできないだろう。
 サジムは右腕を引っ張った。案外あっさりとルクの口から抜ける。
「何なんだ?」
 ベッドの上にあぐらをかき、ルクが咥えていた右手を眺めた。これといって変わった所は無く、いつもの右手。ルクの口の中にあったためか、少し湿っている。
「何で、いきなりぼくの手を咥えてたんだ? 手に何か付いてた?」
「うーン、何でしょウ」
 ルクは右手で口元を撫でながら、首を傾げる。青緑色の髪の毛が揺れた。
 どうやら、自分でも自分の行動の意味を理解していないようだった。人差し指で頬をかいてから、サジムの手を見つめ、答える。
「ナンとなく、ご主人様が美味しそうに見えましタので」
「怖い事言うなぁ……」
 手を眺めながら、サジムは眉毛を下げた。
 本人曰く、自分が作る消化液はかなり強力で、有機物なら大抵のものを消化できる。実際、野菜の皮や魚の骨なども気にせず食べたりしていた。人間の身体を消化することも、難しいことではないだろう。
 ルクが緑色の瞳で、サジムの右手を見つめる。
「もう少し咥えさせてほしいのですケド、ダメですか?」
「駄目」
 即座に首を振るサジム。
 下手に口に入れたら、そのまま食べられそうな気がした。今までルクはサジムに危害を加えることは無かったが、だからといって完全に安全とは思えない。いきなり美味しそうと言われればなおさらである。
 残念そうに自分の指を咥えるルク。
 ふと思いついたように、壁のカレンダーに目を向けた。
「ご主人サマ。今日は何か用事があるようですケド、何があるんでス?」
 今日の日付に赤丸が付けてある。
 サジムはベッドから足を下ろし、近くにあったサンダルに足を通した。
「先生が来るから挨拶しに行くんだよ」
「センセイ?」
「ナナ・フリアル先生」
 晴れた窓の外を眺めながら、そう告げる。
 五年前、孤児院で数学を教えていた老魔術師だった。ルクの制作者でもある。本職は研究者らしいが、副業で教師もしていた。気質が合ったのか、サジムはよく面倒を見て貰った記憶がある。
 娘夫婦がこの街にいるらしく、会い来ているらしい。
 サジムはそのついでに挨拶に行く予定だった。
 納得したのかルクが頷く。
「フリアル先生ですカ。会ったら、ワタシのことをよろしく言っておいて下さイ」
「ついでに、その変な行動の事も訊いてくるよ」
 サジムはそう告げた。

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10/12/30