Index Top 第6話 紫の訪問

第4章 ヅィの愚痴


 ごぎり。
 拳が顔面にめり込む異音。
 千景の振り抜いた右手が、秋奈の顔面を捕らえていた。
 そのまま体重と勢いを乗せて、拳を振り抜く。
「………」
 声もなく吹き飛んだ秋奈が、仰向けに地面に倒れた。黒髪が大きく広がる。
 あちこちが凍り付き、手足に作られた切傷から血を流していた。千景の拳に打たれ鼻血も出している。最後の一打がとどめになったのだろう。
 気絶してしまったらしく、秋奈は動かない。
 残心は忘れず、千景は一度秋奈から距離を取った。
 一分ほど様子を見てから、静かに呟く。
「勝った……」 
 千景と秋奈の術とシゥとノアの魔法によって、河川敷はあちこちに穴が開いたり、凍ったりしている。後で片付けと修理が必要だろう。
 離れた所から、ヅィがジト眼で眺めている。
「よくやったの……」
「妖精バリア一号、二号がなければ危なかった……」
 千景は左腕で額の汗を拭った。
 左斜め前に倒れたノアと、右後ろに倒れたシゥがいた。氷の剣は地面に落ちている。秋奈の攻撃の前に、千景が放り投げた結果だった。二人とも黒鬼蟲に妖精炎を喰われて、意識を失っている。
 呆れを通り越して、感心したようにヅィが頷いていた。
「主も容赦なくその二人を盾にしたが、あやつも躊躇なく攻撃しおったな……。人間という生き物は恐ろしいものじゃ。良心とか情とかそういうものはないのか?」
 千景と秋奈を順番に見る。
 苦笑いを返してから、千景はシゥを右手で抱え上げた。
 六十センチほどの身体と、二キロほどの重さ。意識を失い脱力した身体は、まるで人形のようだった。青いツインテールが力無く垂れる。シゥがいつも大事に手入れしている長い髪の毛。その大事にしている理由は、ピアの記憶の本に封じられているようだ。
 千景はシゥの髪の毛から埃を手で払い、続いてノアを左手で抱え上げる。
「気絶させるだけで済むってのは分かってたし」
「……だからといって盾にするな」
 シゥの剣を拾い上げながら、ヅィが呻く。
 シゥとノアは体力を大きく削り取られただけで、外傷などはない。黒鬼蟲で体力と妖精炎を奪われ、意識を失っていた。命に別状はないだろう。
 倒れた秋奈を一瞥し、千景はシゥとノアを抱えて歩き出した。
「事によってはバリア三号の使用も考えていたが、使えなくて残念だった」
 と、隣を飛んでいるヅィを見る。
 氷の大剣の柄を持ち、六枚の羽を広げて飛んでいるヅィ。冷や汗を流しながら、千景から距離を取る。手を伸ばしても捕まらない距離へと。当然の反応だろう。
 思い出したように振り返り、地面に倒れた秋奈を指差した。
「あれ。置いてきてしまっていいのか?」
「放っておいても大丈夫だろ。近付いたら罠とか発動しそうだし」
 正直な千景の意見に、ヅィはため息を付いた。
 土手に作られたコンクリートの階段を上っていく。川を吹き抜ける風に、茂った雑草が揺れていた。気温も上がっていて、少し暑い。
 ヅィが千景が抱えている二人を見る。
「しかし、この二人がこうもあっさりとやられるとは。ま、原因の半分以上は背後からの不意打ちじゃがの……。思っていた以上に人間というものは強いものじゃ」
 妖精郷で五指に入る使い手のシゥとノア。それが人間一人に容易く気絶させられてしまったのだ。色々と要素が重なったとはいえ。ヅィが驚くのも無理はないだろう。
「強さだけなら俺も上の下くらいだけど、俺より強いヤツなんて本当にごろごろいるし。頂点の方は化け物すぎるぞ」
 目蓋を下ろし、千景は応えた。守護十家の当主たちや神代の一族。大妖怪や大神と呼ばれる者たち。理不尽なまでに強い者は多い。何かしら最強の肩書きを持つ者は、国内でも五十人はいるだろう。
「もし、主らの力が借りられていれば……」
 目を伏せ、ヅィが囁く。
 千景は何も言わず、空を見上げた。
 土手の上を走る狭い舗装道路。車一台通るのがやっとの幅である。もっとも、車が通ることは滅多に無い。土手の下側には住宅街が見えた。少し暑い風を感じながら、土手の道を北に向かって歩いていく。
 電車が高架橋を通る音が聞こえてきた。
 千景はヅィを見る。
「そういえば、お前は妖精郷で一番偉いんだよな? 一応」
 ヅィは一度目を閉じ、数秒考え込む。
「一応という言葉が引っかかるが、まあいい。司祭長であるピアと御子である妾が……偉いことになるようじゃの。人間の地位とは随分違った意味合いを持つが」
 言葉を選びながら、そう説明した。
 初めて会った時から感じていることだった。ピアたちを見ていてもあまり威厳は感じられない。見た目や言動がどこか子供っぽい事が大きな理由だろう。
「そう考えると、お前たちの扱いは妙に軽い……」
 千景は言葉を選びながら、そう呟く。
「俺の所に居候しなくても、もっと待遇いい環境は手に入っただろうに」
「もう少しこっそりとこちらに滞在したかったのじゃが、そういう訳にもいかなくての。ようするに、大人の事情というものじゃ」
 風に揺れる紫色の髪の毛を撫で、薄く微笑むヅィ。その姿はどこか妖艶だった。中学生くらいの外見とは思えぬ風格がある。精霊など、生物的な特性が薄い者は外見と実年齢が一致しないことが多い。
「お前らって何歳なんだ?」
「秘密じゃ」
 ヅィはあっさりと答えた。


「ご主人様も二人を巻き込まないで下さい。ヅィも危ないと思ったら止めて下さい」
「はい。すいません……」
「今後気をつける……」
 椅子に座ったまま、千景とヅィは頭を下げた。
 正面ではピアが困ったように眉を寄せている。
 意識を失ったままのシゥとノアを連れ帰ったら、ピアに事情を問われた。正直に起った事を話したら怒られた。冷静に考えてみると、千景がシゥとノアを巻き込んで秋奈と戦う理由は無く、ヅィがそれを放っておく理由も無い。
「大丈夫でしょうか?」
 部屋の戸が開き、ミゥが出てきた。
「治療終わりましたよー」
「二人は大丈夫ですか?」
 ピアが振り返り尋ねる。黒鬼蟲に妖精炎を食われて意識を失った二人。人間に喩えるなら貧血を起こしたようなものだ。意識を失うほどにもなると、軽いものではないが。
 ミゥは笑顔で頷き、
「単純に衰弱していただけですし、後遺症の心配もありませんね」
「よう」
 ミゥの後ろからシゥが出てきた。右手に氷の剣を持ち、けだるげに目蓋を下ろしている。薬によって失った妖精炎を回復したようだった。
 隣にはノアもいる。
「元気になったみたいだな」
「まーなー」
 千景の声に、そう答えてから。
「ノア。捕獲」
 無言でノアが動いた。
 カラスの翼のような羽を広げ、右手を前に出す。手が隠れるほどの大きく長い袖口。そこから勢いよく黒い帯が伸びた。真っ黒なセロハンテープのような見た目である。黒薄の帯刃とノアが呼んだ武器。
 座っていた椅子に強化術をかけ、千景はそれを放り投げた。
 帯刃が椅子を貫き止まる。
 その隙を突いて真横から振り抜かれる氷の大剣を、右手から放った鉄鬼蟲で受け止めた。ブロック状に固めた蟲が、剣の冷気で凍り付いていく。
「どういうつもりだ?」
 目の前に飛んできたシゥに、千景は眼を細めた。
 凶暴な笑みを浮かべながら、シゥが答える。
「それはこっちの台詞だ……! 自分のケンカに勝手に巻き込んだあげく、しかも何であっさりと盾にしてくれてるんだよ! とりあえず一回斬られろ!」
「致命傷にならないよう手加減しますので、安心して下さい」
 淡々としたノアの台詞。
 千景は飛んできた帯刃を蟲で受け止め、後退した。
「おっし。そのケンカ、買った!」


 ピアとヅィを連れて、ミゥは部屋の隅に退避していた。
「どうしましょうねー?」
 乱闘を始めたシゥとノア、そして千景を眺めながら苦笑いを浮かべる。この結果は予想していたが、止めるところまでは考えていなかった。シゥとノアは病み上がりで、千景も消耗しているので、ほどなく燃料切れで双方動けなくなるだろう。
 眼を点にして、ぽかんと口を開けているピア。
「ピア」
 飛んできた椅子の破片を避けながら、ヅィが声を掛ける。
「気が済むまで暴れさせておくべきじゃ」
「はぁ」
 ピアは曖昧に頷いた。

Back Top Next

12/3/1