Index Top 第6話 夏休みが始まって |
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第10章 一夜開けて |
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「むー」 小声で呻きながら、凉子がテーブルに置かれた二枚の紙を見つめていた。 パソコン作成、プリンタ印刷された簡単な誓約書である。 『今後、風無凉子は樫切浩介に対して性的なイタズラなどの行為に一切及びません。それをここに誓います』 書かれている内容を要約するとそんなところだった。 お互いの署名と捺印がなされている。 「というわけで、今後イタズラはしないでくれ」 浩介は静かに、そう告げた。 今朝方起きてきたら、ソファの上で下着姿のまま毛布にくるまって眠っていた凉子。起してみたら、昨日の夜浩介に襲われたのかと勘違いしていた。昨日の夜はマタタビ酒を飲んだ辺りから記憶が飛んでるらしい。ひとまず落ち着かせてから、三十分ほど説教して、この誓約書を書かせたところである。 「うん。分かったよ……」 凉子はなぜか不服そうに頷いていた。 服は黒い着流し服に白い羽織という仕事着に戻っている。説教する前に着替えさせたのだ。さすがに、下着姿のまま説教する気にはなれない。 「一応言っておくと、俺は草眞さんの分身の身体だけど、本物の草眞さんじゃないし、草眞さんの代わりにもなれないから」 「むー」 不服そうな呻きを上げる。 マタタビ酒に酔って叫んだ言葉。草眞の身体を手に入れた浩介に対する嫉妬心で、浩介にイタズラしているというのはおおむね本当だったらしい。女心というものの恐ろしさと不可解さを何となく理解する。 浩介は二枚の誓約書を眺めてから、 「それにしても、凉子さんは何で草眞さんに惚れてるの? 子供の頃に稽古付けられてから、その格好良さに惚れたとは何度も聞かされてるけど」 それは何気ない質問だった。 浩介が草眞に会ったのは一度だけ。それからは、時折手紙のやりとりをする程度である。感情主義と実利主義を両立させた非常に性格が悪く狡猾な女狐――とはリリルの言葉であるが、浩介は草眞のことをほとんど知らないのが現実だった。 しかし、それは口にしてはいけない言葉だったらしい。 ぴくりと跳ねる凉子の猫耳と尻尾。細かった光彩が大きく見開かれる。口の端を妖しく持ち上げ、人差し指を上に向けてくるりと回した。 「草眞さんとは、どんな人かというと……」 「あ……」 何かのスイッチを入れてしまったことを、浩介は他人事のように理解していた。 そして、凉子の草眞談義が始まる。 リリルは裏庭を歩いていた。 午後の日差しも届かない、影となった裏庭。まばらに雑草が生えて、所々苔なども見える。周りの林から落ちてきた枯れ葉が見られるが、落ち葉の季節ではないので量はさほどでもない。秋になれば落ち葉掃除に駆り出されるだろう。 裏庭に来たのは、特に目的があるわけでもなかった。 「知らないうちに世の中は変わるもんだよな。昔から思ってたけど、人間ってのはせっかちだ。特にこの国の人間は――。速さと正確さに偏執的だ……」 愚痴をこぼしつつ、目的地に到着する。 裏庭の一角に古ぼけた木の長椅子が置かれた。リリルがこの家に居着くようになった頃には既に置いてあった。誰が作ったものかは知らないし、さほど興味もない。 右手の一振りで軽く魔力を飛ばして埃を払ってから、リリルは長椅子に腰掛けた。背もたれに背中を預けて、力を抜く。単なる偶然だろうが、この長椅子は幅や背もたれの角度がリリルの身体によく合っている。 「あー。気持ちいいー」 脱力してぼんやりと空を見上げながら、目蓋を下ろして呟いた。 日陰ながらも熱い空気とは対照的に、ひんやりとした椅子。周りには誰もいないので、独り言を漏らしても誰も聞いていない。浩介が裏庭に来ることもないので、ここはリリルの安らぎの場所だった。 五分ほど意識を漂わせてから、ふと横を見やった。 「あ、片付けないとな」 四本の木刀が椅子に立てかけられている。 素振りをするため物置から持ってきたまま、起きっぱなしにしているのだ。素振りで一汗掻いた後、椅子に座ってぼんやりしているうちに、木刀のことを忘れてしまう。時々まとめて持ち帰ってるので、文句を言われることはない。 数秒ほど四本の木刀を見つめてから。 「木刀が四本……」 リリルはおもむろに両手を伸ばした。右手と左手で二本の木刀を掴み、尻尾を伸ばして三本目の木刀の柄に巻き付ける。凉子のように術を使う必要はない。元々この尻尾は第三の腕のような意味があるのだ。隠し技的なものだが。 尻尾で木刀を持ったまま動かしてみる。多少無理はあるが、不便はない。 最後に四本目の木刀を掴んで口に咥えた。牙のような犬歯に引っかけるように強く噛み込む。木刀の重さに頭が傾くが、首に力を入れて耐える。 「四刀流!」 その場でぐるりと一回転し、右手と左手、尻尾と口の木刀で構えを取った。四本の木刀が芸術的な角度を作り出す、芸術的な構え。 そして、硬直する。 視線の先に、狐姿の浩介が立っていた。 間の抜けた表情でリリルを見つめている。力の抜けた頬、半開きの口、視点の定まっていない瞳、垂れた狐耳と尻尾。見てはいけないものを見てしまった、そんな顔だった。 お互いに黙り込む。 数秒して、その沈黙を破ったのは浩介だった。 「ええと、倉庫にしまってある木刀の数が足りないから、お前がまたこっちに起きっぱなしにしてるんだろうなー、と思って取りに来たんだけど……」 狐耳を指で弄りながら、半ば棒読みで呟く浩介。 それは見れば分かる。時々置き忘れていた木刀がなくなっていることもあった。浩介が片付けているのは容易に想像できる。 だが、今それは関係ない。 何も出来ぬまま、リリルの頬を脂汗が流れ落ちていく。視線が動かせない。思考が動かせない。身体が動かせない。木刀四本を構えたまま、浩介をただ見つめる。 再び数秒の沈黙。 浩介が口を開いた。 「何やってんだ……それ。四刀流って……」 そして、時は動き出した。 リリルは迷わず木刀を投げ捨て、身体の前後を入れ替える。全身を駆け抜ける強烈な悪寒に形振りかまわず駆け出した。両目から涙がこぼれているが気にしない。 「覚えてろよ、こんチクショォォウッ!」 よく分からない捨て台詞とともに、リリルは思い切り地面を蹴った。背中から翼を広げ、空中へと飛び上がる。裏庭で休憩という予定は破綻。今更休憩はどうでもいい。 「あー……」 浩介の声が聞こえてくるが、無視する。 行き先は考えぬまま、リリルは逃走本能の赴くまま突き進んだ。 林の向こうに飛んでいったリリルを見送ってから。 浩介は尻尾を左右に動かした。引き留めるように伸ばした右手が落ちる。放り捨てられた四本の木刀だけが残っていた。息子の秘め事を見てしまった母親というのは、多分こんな感じなのだろう。 今は亡き母を思い出し、首を左右に動かす。 「悪いことしちゃったな……」 小さく、そう独りごち、浩介は地面に落ちた木刀を拾った。 |