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大盛りの水平線にカツを刻んだけもの |
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東京のとあるビジネス街。 空は青く澄み渡り、所々に小さな綿雲が浮いている。暑くも無く、寒くもなく、風は優しく肌を撫でる程度。年に数回あるかないかの、理想的な天気である。 そこから少し離れた通りを、高級ビジネススーツをまとった男が歩いていた。 現代を生きる猛烈サラリーマン・利根川幸男である。 「さて、今日は結構な空腹……!」 腹を撫でながらそう呟き、視線を向けた先には――カツ澤! 圧倒的大盛りを売りしたカツ丼屋である。 席に着き、利根川は息を吐いた。 「今日は小盛りで行けるか……? いや、レディースで行かせてもらおう」 一人手早く注文を決め、店員に声を掛ける。 「レディースひとつ頼む」 「はい。かしこまりました」 女の店員が笑顔で伝票に書き込み、厨房へと向かう。 そちらから目を離し、利根川がスーツの内ポケットからメモ帳を取り出した。中身を開き、午後の予定と、明日の予定を確認しておく。行われるのは定例会議だけだ。大きな声では言えないが、楽な部類の会議である。 「ん?」 ふと、その時だった。 がらっ。 店のドアが開き、女が一人入ってきた。 「?」 利根川はなんとなくその女を見つめる。 少し日焼けした長い黒髪に、温厚そうな顔立ち。背はそれなりに高いだろう。白い上着に、赤いロングスカートという出立で、どこか浮き世離れした空気を纏っている。その姿に、巫女という言葉が浮かんだ。持ち物は肩掛けバッグと、弓袋に収められた弓である。 (弓道部の学生か?) そう考えるが、答える者もいない。まぁ、外れてはいないだろう。 女の前に店員がやってくる。 「一名様ですか?」 「はい。一人です」 「それではこちらに」 店員に促されて、女は利根川の横の席に座った。 テーブルに置いてあるメニューを取り、開いて中を見る。 「色々あるんですね」 興味深げに頷いていた。この店に来るのは初めてらしい。 それから顔を上げ、店の壁に貼ってある写真に視線を走らせる。かつてカツ澤の大盛りカツ丼に挑み、散って行った者たち。 その中にひとつ、大盛りのカツ丼を食べきった者の写真があった。 ふと何かに気付いたような仕草から、女の視線が利根川に向かう。 にこっ。 と、微笑みながら一礼してくる。 「!」 一瞬驚きつつも、それはおくびにも出さず、利根川は軽い会釈を返した。見知らぬ相手とはいえ会釈されたら会釈を返すのは、社会人の常識である。 「店員さん」 女が声を上げた。 「大盛りお願いします」 その瞬間―― 店内に電撃が走る! 「なん――!」 「だ、と……!?」 見えないハンマーに殴りつけられたかのように、客や店員の動きが一瞬止まった。続いて、その視線が一斉に女へと集中する。 ――おい、お嬢さん! 喉から出かかった言葉を、利根川は無理矢理飲み込んだ。 (いや、まさか……!) カツ澤の大盛りカツ丼。それはまさに米とカツの圧倒的暴力である。 それに挑む人間は二種類だ。 ひとつは、挑戦者。カツ澤の大盛りカツ丼の存在を知り、それを制覇しようと挑みかかる者。多くは圧倒的カツの物量に散っていく事となる。 もうひとつは、無知なる者。空腹故の油断から、メニューも何も見ずに大盛りを頼んでしまう迂闊者。準備も覚悟も何も無しで、大盛りに挑む事となる。利根川や、以前の小太りの男がコレに含まれる。 初めてこの店を訪れた者が大盛りを頼むなら、まず後者だろう。 (だが、この娘は違う……! 全部分かった上で、頼みおった……! 大盛りを!) たまたま入った店、メニューを見て大盛りの存在を知り、壁の写真で大盛りへの挑戦者の姿を見て、圧倒的物量を理解した上で、迷わず大盛りを頼む。それがどれほどに無謀な行為であるかは、説明する必要も無い。 (つまり、食べきる自信があるということ……! にわかには信じられんが……!) 利根川は女をじっと見つめた。見た目は普通の女である。 「大盛り、ひとつですね?」 店員が女の席へとやってくる。心持ち引きながら、 「大盛りはかなりの量ですよ。大丈夫ですか?」 「大丈夫です。食べられますよ」 しかし、女は落ち着いた笑顔のまま、宣言した。 「カツ丼大盛りです」 ドンッ! 女のテーブルに置かれたカツ丼。それはカツ丼というには、あまりにも大きすぎた。大きく分厚く重く、そして大雑把過ぎた。それは正にカツの山だった。 ごくり。 利根川は唾を飲み込み、巨大なカツ丼を見つめた。自分が食べるわけではないが、その威圧感に背筋が寒くなる。いつぞやの死闘の記憶。何故自分がこれを食べ切れたのか、未だに謎である。 「わぁ、美味しそう」 カツの山を前に、女は瞳をきらきらさせている。 利根川の頬を、嫌な汗が顔を流れ落ちた。 (怯まないっ……! 全くっ……! 微塵もっ……!) 規格外のカツ丼が目の前に置かれれば、誰でも怯むだろう。怯むものだ。たとえ大食い自慢でも。食べきれないかもしれない、残してしまうかもしれない……そう、悪い未来を想像してしまう。故に恐怖するのだ。 (しかし……! この女にはそれが無い!) 故に、平然としている。 山盛りのカツとご飯を自分が全て食べきる事に、何ら不安も疑問も無いのだ。なぜなら食べきって当然なのだから。食べきれるものに、食べきれないという恐怖など無いのだ。 空腹の時のラーメン一杯に恐怖など感じないように。 (確信! この女は大盛りカツ丼を食い切れるという絶対的確信がある――!) 利根川は大盛りカツ丼と女を何度も見る。 だが、理屈と推測を重ねても、根本的な疑問は覆らない。 この女が、大盛りカツ丼を全て食い切る。 そんな事が果たして可能なのか!? 「いただきます」 利根川の葛藤を余所に、女はカツ丼を食べ始めた。 「こちら、レディースサイズとなります」 「あっ、はい」 店員の持ってきたレディースカツ丼が、利根川の前に置かれる。 勢いよくご飯を口に入れ、カツを口に入れ、豪快に咀嚼し、飲み込む。 「美味いな……」 利根川は満足げに笑い、息を吐き出した。 細かい事を気にせず、がつがつと飯をかき込み、胃に叩き込む。荒ぶる食欲に任せて、全てを食らい尽くしたくなる事が、男には時折あるものだ。 「…………」 ちらっ。 視線を横に移す。 もっもっもっもっ。 女はマイペースに大盛りカツ丼を貪っていた。勢いよくご飯を口に入れ、カツを口に入れ、豪快に咀嚼して飲み込む。ごく普通の食事の動作。 (食い切るか……! 平然と……! どういう胃袋をしてるんだ……!) 息を呑み、利根川は大盛りカツ丼を凝視した。 店の他の客も、横目で、しかし食い入るように女の食事を眺めている。 気がつけば、カツ丼はおよそ半分になっていた。普通に料理を食べるように、女はこのカツ丼を確実に切り崩している。完全に消滅するのは時間の問題だろう。 「あぁ、美味しい」 幸せそうにカツ丼を頬張っている女。苦しげな気配などどこにも見られない。食べるペースも全く減っていない。満腹など存在しないとばかりに。 「ん?」 目を移すと、カメラを持った店員がいた。 大盛りカツ丼に挑んだ者は写真を撮られるのが、この店のルールだ。 利根川は声を上げた。店員に届くぎりぎりに抑えた声で。 「おい、店員」 「は、はい?」 返事をしてくる店員に、利根川は女を視線で示す。 「貴重な映像だ。今のうちに何枚か撮っておけ」 「は、はい!」 パシャッ。 カメラの向こうでは、女が幸せそうにカツ丼を食べていた。 ざわ…… ざわ…… 店員も客も、ただ呆然として女を見つめている。 「とても美味しかったです」 女の丼は空になっていた。山のようなカツも、ご飯も全て女の腹に納まっている。ご飯粒も残っていない。信じられない話だが、女はそれを容易く成し遂げてた。 「さすがにお腹いっぱいですね」 女は自分の腹を撫で、苦笑している。 その姿を背に、利根川はレジで会計を済ませ、店の外へと出ていた。 店内の声が消え、町の喧噪が耳に流れ込んでくる。 行き交う人々と、高く聳えるビル。 青い空と白い雲。 いつもと変わらぬ町の風景。 しかし、何か大事なものが抜け落ちてしまったような錯覚を覚える。 「さて、帰るか」 利根川は、会社に向かって歩き始めた。 「小盛りひとつ」 「かしこまりました」 女の店員が笑顔で伝票に書き込み、厨房へと向かう。 小さく息を吐き、利根川は視線を上げた。 壁に飾られた写真。長い黒髪の女が、笑顔で空の丼を見せている。写真の隅に、女が美味しそうにカツ丼を食べている小さな写真が添えられていた。 『一航戦の誇り!』 と写真に記されている。 「あの女は一体何者だったんだ……」 圧倒的な大盛りカツ丼を苦も無く全て食べきった女。詮索しても仕方ない。そんな大食いがいただけという事だろう。常識がひとつ壊れたりもしたが。 がらっ。 店のドアが開いた。 利根川はそちらに目をやり、。 「なっ!」 衝撃が意識を貫く。 入ってきたのは、大和撫子然とした背の高い女と、絵に描いたようなアメリカンブロンドガールの二人組だった。そこはかとなく、先日の黒髪の女と雰囲気が似ている。 「ああぁ……」 ぐにゃぁ……。 目の前の景色が歪んでいく。 「ここが赤城さんの話していたお店ですね。美味しそうです」 「これが、Japanese大盛りカツ丼ネ! いいわ! Looks delicious!」 「そんな……バ、カなぁ……」 分かってしまった。これから何が起こるのか。 分かってしまった。自分が何を目撃するのか。 分かってしまったのに、どうすることも出来ない。 (壊れる――! またっ……! 常識が、ひとつ――!) 自分にはそれを止める事もできない。 逃げる事もできない。 無力、圧倒的無力という事実に。 利根川幸男はただ歯を食いしばって耐えるしかなかった。 |