Index Top 第7話 妖狐の都へ |
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第11章 温泉で水入らず |
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「声かけただけなのに、勝手に驚いて湯船に落ちたの君ですよ」 正論っぽいことを口にする白鋼。事実であるが事実でない。 銀歌は息を吸い込み、湯船から外へと上がった。濡れた尻尾を勢いよく振ってお湯を飛ばす。濡れたせいでぼさぼさになった狐色の毛。 身体を隠すようにバスタオルを巻き付け、落ちないように締めてから、湯船の縁に腰を下ろした。床からは三十センチほどなので、腰掛けるのには丁度いい。 「大体何でお前がここにいるんだよ!」 「ここ貸し切りにしたのは僕ですから。僕が来るのは当然でしょう。いかんせんこんな状態ですから男湯入るわけにもいきませんし、逆に女湯入るわけにもいきませんし。部屋のお風呂では入った気にもなりませんし」 横を向いて、ふぅと息をつく。 身体は女だが、精神は男。ある意味男でも女でもないため、男湯にも女湯にも入れない。入れないわけでもないが、色々マズい。だから、ここを貸切りにしたのだろう。 「お前、せめて前隠せ」 眉を傾けながら、銀歌は呻いた。 全裸のまま立っている白鋼。普通は男でも女でも風呂に入る時は身体を隠すものだろうが、全く頓着していない。すらりと伸びた手足は引き締まっていて、胸下から腰まで健康的な曲線が見える。控えめながらも形のよい乳房、お腹の中心に見えるきれいなへそ。元々自分の身体ながら、奇妙なほど美しかった。 しかし、その全身に下手な落書きのように刻み込まれた太い創傷跡。白鋼自身がかつての銀歌に刻み付けた傷の跡である。 白鋼は笑いながら、左腕を持ち上げた、 「別に身体隠すことないでしょう? 一応女同士ですし、君がこの身体を見慣れていない理由は無いですし、僕も君の裸は見慣れていますしね。君が目を覚ます前ですけど」 「そういう問題じゃない……」 銀歌は諦め半分に言ってみる。文句と言うよりも、単なるぼやき。白鋼は他人に言われた程度で、自分の行動や信念を曲げるほど素直な性格ではない。 「にしても、随分とよくなってるな」 顔を持ち上げ、白鋼の身体に刻まれた傷を観察する。 以前一度見た時よりも明らかに薄くなっていた。丸い銃創はもう跡も残っていない。毎日治療していると言っていたので、回復するのは当然だろう。 だが気になることがひとつ。 「何で右手と右足には傷無いんだ?」 全身に傷跡があるのに、右手と右足は健康そのものである。 白鋼は不思議そうに瞬きをしてから、自分の右手右足を見つめた。狐耳の付け根を指できてから、銀歌に眼を向けてくる。 「あれ……君には言っていませんでいたっけ? 右目と右腕、右足は損傷が酷くて回復できなかったら、義眼と義肢に取り替えたと」 「そだっけな」 白鋼の治療のことを思い出し、銀歌は素っ気なく頷いた。沼護義邦の手により、重症部分を切断し、義肢義眼を組み込んだ、と。普段からごく普通に動かしていたため、今まで完全に忘れていた。 白鋼はすたすたと洗い場の方へと歩いていく。三人分の椅子が置かれていて、正面には鏡が付けられていた。壁から伸びる小さな湯樋から出てきた温水が、檜で作られた四角い湯溜めに落ち、湯溜めの縁の切れ目から湯捨て溝へと流れていく。 椅子に腰掛けながら、白鋼が振り向いてきた。 「それより、さっさと身体洗ってしまいましょう。夜は忙しくなるのですから、その前にきっちりと疲れは取っておかないといけませんしね」 言い終わるよりも早く、身体を前へと傾け、長い銀髪をうなじから前へと垂らす。そのまま手桶で湯溜めからお湯を取り、お湯を頭へと掛けていた。何度もお湯で髪をすすいで汚れを落としながら、 「そういえば、首輪外す方法分かりました?」 「考え中だ」 首輪を撫で、銀歌はそれだけ答えた。日付が変わる前に外さないと死ぬ。夜は忙しくなるという今の台詞から考えても、かなり危険な事態が待っているのだろう。 白鋼が小さく笑うのが気配で分かった。 「その口調ですと、方法は一応分かったようですね」 「さあな?」 夜の山へと眼を写し、銀歌は手を下ろす。方法は既に見当が付いていた。答えは既に伝えている、という敬史郎の言葉によって思い出したこと。それは、かなり前に白鋼が口にしていた理の力の説明だった。 (妖怪や神が老けるのは老けると思った時から、銃器を使うと力が落ちるのは銃器を使うと力が落ちると思っているから。理の力を得る第一段階は、意思の力を自覚し完璧に制御すること……か。それが答えだろ) 右足の爪先で檜の床を叩きながら、腕組みをして天井を見上げる。 (この首輪が外れないのも、あたしが外れないと思っているから) 外れると思えば普通に外れるのだ、この首輪は。だが、普通に外れると思うことが極めて難しい。意思の完全な制御。その極めて初歩的な練習なのだろう。 濡れた髪を指で梳き、銀歌は視線を下ろす。 「しかし、長い髪というのは本当に大変ですね」 髪を濯ぎ終わり、白鋼は大きく息をついた。元男が長い髪を洗うのは大変だろう。 だが、洗わないわけにもいかない。頭髪用シャンプーを手に取り、お湯を少し混ぜて泡立ててから、白鋼はそれを丁寧に髪へと馴染ませる。 両手の人差し指と中指を伸ばし、一度ごしごしと額と前髪の境辺りをこする仕草。 それから両手の指先で優しく頭を洗い始めた。 「なあ?」 その動きを眺めながら、銀歌は口を開く。白鋼の髪の洗い方は、自分とさほど変わらない。だが、ひとつ気になることがあった。 「何でしょうか?」 頭を洗いながら、白鋼が返事をしてくる。 銀歌は背筋に嫌な寒気が走るのを自覚した。 髪を洗う前に両手の指で前髪の縁を擦るという仕草。普通そんなことはしない。それは、銀歌が髪を洗う時の癖だった。それを、何故か白鋼がやっている。 訊くか否か、数瞬――いや数秒迷ってから、銀歌は勇気を出して質問した。 「ひとつ嫌な予感がするんだが、お前……あたしの知識とか記憶とか使える?」 今まで考えたこともなかったが、冷静に考えると白鋼は銀歌自身の身体である。その身体に残された記憶や癖などを引き継いでいる可能性もあった。 「人が何かを覚える時は、肉体の中枢部分である脳と精神の中枢部分である魂――この両方に記憶が刻み込みます」 頭を洗いながら、白鋼が唐突に話を始める。講義でもするような口調で。 「脳と魂はお互いにバックアップの関係で、記憶や人格の安定化の働きを持ちます。銀歌くんは精神に強い損傷を負い、さらに脳の記憶による修正がなされていないので、過去の記憶自体に損傷があります。それは自覚あるでしょう?」 銀歌は無意識に頭に手を当てていた。 自分の記憶。身体は変わっても、今まで生きてきた事は覚えている。だが、あちこちに不自然に曖昧な部分や欠落があった。それが白鋼の言う記憶の損傷だろう。 泡の付いた右手を持ち上げ、楽しげに続ける白鋼。 「翻って僕は魂を抜いたこの生きた身体に転生したので――銀歌くん、君の肉体の脳が持つ記憶は無傷のまま扱えるんですよ。他人の日記見てるようなもので、現実味は薄いんですけどね。でも、この身体で生活するには色々と役に立ちます」 こともなげに言ってのけた。 茶色の目が見開かれ、狐耳が立ち、濡れた尻尾の毛が逆立つ。銀歌はゆっくりと深呼吸をした。熱さすら感じる風呂場だというのに、全身に鳥肌が浮かんでいる。最も知られたくない相手に、記憶を全て握られているという恐るべき状況。 ごくりと唾を飲み込んでから、怖々と――訊いた。 「……てことは、アレとかアレとか、アレも知ってるのか?」 脳裏に浮かぶ思い出したくない思い出。 「ええと、アレとは二十四歳の春の――」 「言うなああああ!」 本気で泣きながら、銀歌は白鋼へと飛びかかっていた。 |