Index Top 第8話 夢は現実、現実は夢

第9章 さらなる深淵へ


 振り抜いた乖霊刃が近づいてきた青い球体を切り捨てる。真っ二つに裂けた球体が、風船のように弾けた。破片は空中に溶けて消える。
「何ですか、ここは……?」
 凉子は三本の乖霊刃を構えたまま、周囲を見回した。
 無数のガラスブロックで構成された迷宮のような場所である。あちこちに階段が並び、穴の開いた壁や短い通路が見えた。透明なガラスが無数に重なって見えているが、不思議とどこが床であるかは分かる。そういうものらしい。
 そして、あちこちに浮かんでいる赤、青、緑の色とりどりの球体。
 コンクリートの迷路を抜け、森を抜け、雲の上を抜け、たどり着いたのがここである。
「精神の最深部一歩手前ですね。いわゆる無意識領域。ここから、どうやって向こう側に行くかが問題なんですけど。どこかに扉となるものがあるはずです」
 羽ばたきながら、蝶が答える。
 今までここに来るまでは、扉を通って来た。乖霊刃でも傷を付けられない扉。そこを通るたびに空気が変わる。この蝶が扉を開けているが、ただ触れるだけで具体的に何をしているかは分からなかった。高度な幻術を使っているのだろう。
「うりゃ」
 乖霊刃を振り抜き、凉子は赤い球体を斬り捨てる。
 叩けば壊れる程度だが、数え切れないほどの量だ。これは、精神の自己防衛システムのようなものだと言われている。乖霊刃で叩けば問題ないが、それ以外のもので触れるとそちらが大きなダメージを負うらしい。さきほどポケットにあった小刀を当ててみたら、逆に小刀が砕かれている。
 身体を斜めに傾けて階段を上りながら、凉子は首を傾げた。重力方向の不規則っぷりに最初は戸惑ったものの、今では大体慣れている。
「みんな大丈夫でしょうか?」
「浩介さんと飛影くんの所へは援軍を送っておきました。……アルフレッドくんが少し危ないことになっていますけど、多分大丈夫でしょう」
 後半の言葉には、何とも言えぬ複雑な感情が映っていた。
 アルフレッドと浩介と飛影。あまり相性のよくない取り合わせである。そこに誰かが加わって混沌とした状況になっているのだろう。
 階段を登り切り、床となった壁を歩きながら、凉子は口を開いた。
「あの。そろそろ気づいたんですけど……。チョウチョさんって、慎一さんの」
「日暈沙夜。旧姓は河音。慎一の母です」
「河音……」
 凉子は乖霊刃を持った右手で額を押さえた。
 守護十家の河音家。幻術に特化した術系統を持つ一族である。戦闘能力などは大したことないものの、その術系統の特異性から守護十家で最も厄介と表現されるらしい。
 ゴト……
 目の前のガラスブロックが抜け落ちる。
「?」
 床に開いた黒い穴。
 ゴト、ゴト……
 再び鈍い音が響く。音のした方向に眼を向けると、壁と床に四角い穴が開いていた。遠くまで透けて見えるガラスの床や壁だというのに、穴の中は真っ暗である。
「沙夜さん、何が起こっているのでしょうか?」
「私の名前が鍵となったようですね。この空間が本格的に私たちの排除を始めました。予想はしていましたけど、ここから少し面倒になりますよ」
 緊張感なく沙夜が答えた。
 言っている事は理解できなかったが、言いたい事は漠然と理解できる。
「ん……?」
 身体から重力が消えた。
 凉子の立っていた床が抜ける。
 すぐさま床を蹴って、近くの壁へと貼り付いた。今まで立っていた場所には四角形の穴だけが残っている。床と一緒に落ちていたらどうなっていたのかは分からない。
「落ちても死ぬことはありません。この夢の世界から排除されるだけです」
 羽ばたきながら、沙夜が近くに浮いていた球体に触れた。乖霊刃で斬った時と同じように破裂して消える。だが、球体の数はさっきよりも確実に増えていた。
 近づいてくる球体を乖霊刃で壊しながら、凉子は次々と抜けていく床や壁を眺めた。
「マズいですよね?」
「こうして動いてくれる方が、急所を探すのは楽なんですよ。最深部への道順が見えてきました。行きますよ凉子さん、まずは右下に見える通路です」
 右下に見える通路は何本かあるが、不思議と沙夜が示している通路がどれかは分かる。ここでは、自分の思考も微妙に相手に伝わるらしい。
「分かりました」
 凉子は壁を蹴った。空中から近づいてくる球体を乖霊刃で壊しながら、一度階段の縁を蹴り、目的の通路へと飛んでいく。その間も壁や床、天井や階段が抜け落ち、そこから暗闇が見えていた。
 身体が妙に軽い。落下速度が弱まっているようだった。
 目的の通路を走り抜け、床に開いた穴を飛び越える。近づいてくる十個ほどの球体を三本の乖霊刃で捌きながら、
「次はどっちですか?」
「真上の階段へ」
「はい」
 凉子は床を蹴って、遙か頭上に見える階段目掛けて飛んで行く。術を使わず普通に床を蹴るだけで、数メートルもの跳躍ができた。空中を泳いでいるような感覚。既に壁や床の三割は削れて黒い闇へと変わっている。


「どうだい? この世界は、なかなか面白いと思わないか?」
 普段着姿の智也が、暢気に笑っていた。
 防砂林を抜けてから公園のような場所を突っ切った先。そこは合宿の待ち合わせ場所にした碧ヶ浜海浜公園第一広場に似ている。煉瓦敷きの広場とその中央に建てられた銀色の四角い柱。その前に智也が立っていた。
 慎一は両手を下ろしたまま、視線を夜空に向ける。吐息してから、智也へと向かって足を進めた。すたすたと散歩するような普通の足取り。
「あんまり」
「はは、そうだと思ったよ」
 智也はぽんと額を叩いて笑ってみせた。
 前に伸ばした右手から、一振りの剣が作り出される。大人の背丈ほどもある両刃の剣だった。ツーハンデットソードと言われる西洋の両手剣。長大な見た目とは対照的に、意外と軽く作られている。重量はおよそ三キロほど。
「やはり、慎一はこういう方が好きだろうし。ぼくも気になるんだ。この力が本当にどこまで通じるのか。今まで試す機会は無かったけど、実験台になってもらうよ?」
 そう言って、智也は両手で剣を構える。
 パンッ。
 抜き放たれた刀が、智也の剣を弾いていた。縮地の術から放たれる超高速の抜刀。抜刀術とは、余分な動作を切り捨てた速さによる奇襲である。速攻性の反面、最小限の動きしか乗せられず、また片手で放つため、どうしても純粋な威力は弱い。
 剣が横に逸れ、智也の正面ががら空きとなった。
「……!」
 軌道を変えた刀の切先が、智也の首を突く。骨までは届いていないが、刃は首の動脈と気道を切断していた。普通なら致命傷である。もっとも、日暈家の人間が戦う相手は、首を斬った程度で倒れない相手の方が多い。
 素早く後退し、慎一は刀を正眼に構え直した。文字通り一瞬の攻撃と退避。
「いきなり斬ってくるとは……」
 左手で喉を押さえ、智也が呻いた。喉と口から血を流してはいるものの、実際に致命傷を負ったわけではないので、普通に動けるようだった。
 ふわふわと銀色の柱の周囲を漂っている折り紙の蝶を見ながら、慎一は告げる。
「偽物には興味ないので」
「何を――」
 言いかけた智也の顔が固くなった。
「何をした……?」
「包囲完了か。仕事速いなぁ、母さんは。やっぱり河音は凄いよ」
 苦笑いをしてから、慎一は切先を下ろす。
 事前の打ち合わせ通り、幻術によって智也を自身の夢の世界に閉じ込めた。智也はこの夢の世界を破棄しようとして、それができずに焦っている。慎一たちが智也の注意を引きつけている間に、沙夜と桜花が現実から智也の精神を縛ったのだ。
 計画通りである。失敗要素も特に無い簡単な作戦だったが。
「どうやら謀られたようだね。ぼくが油断していたと言うべきだろう。君たちの仕事は遊びじゃないということか、はは……。しかし、人の心に土足で踏み込んでくるのは、さすがに礼儀知らずじゃないか?」
 身体を斜めに構えながら、眼鏡を動かす。外見は鬼門寺智也であるが、本人ではない。いわば遠隔操作の人形のようなものだ。智也の本体はここにはいない。
「状況が状況ですからね。失礼は承知ですよ」
 慎一は刀から離した左手に、逆式合成術によって作られた堅力を集める。
 それにより柱の周囲を漂っていた折り紙の蝶に堅力が装填され、折り紙に込められた術式が発動した。沙夜が動かしている蝶との接点を強化する、口寄せ術の一種。
「夢の魔物の調査が僕の仕事です。手抜きはしません」
 駆け出した慎一は、すれ違いざまに智也を斬り捨て、銀色の柱を根本から横一文字に斬り払った。この柱は仮想世界における基準点のようなもの。それが壊されたことにより、周囲の風景が崩れ、地面に大穴が開く。
 慎一は迷わずそこへと飛び込んでいた。近くを飛んでいる折り紙の蝶。
 遙か上方に消えていく入り口から、智也の声が聞こえる。
「真剣勝負か……。負けの決まった勝負のようだけど、負けっ放しは嫌だからね。ぼくもやれるところまでやってみるよ。慎一も覚悟しておいてくれ」
 ため息ひとつ漏らし、慎一は聞こえない振りをした。

Back Top Next