Index Top 第7話 臨海合宿 |
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第17章 敗北者は咆える |
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部屋に広がるのは奇妙な光景だった。 折畳式の将棋盤に向かい合い、無言で将棋を指している智也と一樹。さきほど梅の間で指していた対局の続きだろう。一方、二人に背を向け、完全に突き抜けた笑顔のまま、スケッチブックに鉛筆を走らせているアルフレッド。 そして、マイペースに将棋を眺めている綾姫。 「何だ、これ……?」 部屋を見回し、慎一が呻いた。 リリルや飛影も戸惑ったように三人を眺めている。事情を知らない者にとっては意味不明なものだろう。凉子はさほど興味もなさそうにしていた。カルミアは慎一の手の平の上で、半分微睡んでいる。いつもは眠っている時間らしい。 「見たままじゃない?」 気楽に呟き、結奈が空き缶を持っていたビニール袋に放り込んだ。酒はそれでおしまいらしい。アルフレッドに近づきながら、妙に陽気に声をかける。 「アルフー」 「あはははー。何だィ、ユイナー?」 声をかけられ、アルフレッドが振り返る。何か壊れたような、無闇に明るい声。底抜けな笑顔と相まって、逆に不気味さを漂わせてた。 「いくら分負けた?」 単刀直入な結奈の質問に、アルフレッドは笑顔のまま両目から涙を流し始める。いきなり急所を抉ったようだった。いつものことだが、手加減も容赦もない。 「Three hundred trillion YEN……」 弱々しく口を動かすアルフレッド。絞り出すような苦悶の涙声である。ほとんど素の英語発音だったが、何と言っているのかは辛うじて聞き取ることができた。 浩介はこっそりと慎一に尋ねる。 「スリーハンドレッドトリリオンっていくら?」 「アメリカ式のトリリオンは一兆。つまり、三百兆円分負けたって意味だな。何をどうやったらそんな金額が出るかは分からないけど」 ため息をつきながら、慎一は答える。部屋で待っていればよかった。そんな考えが容易に読み取れる表情だった。慣れない者にとって、漫研中枢の空気は辛いだろう。 「三人で、ギャンブルでもしてたのか?」 「多分、そうだと思うよ」 苦笑いととともに、浩介は頷く。アルフレッドがその場のノリで、智也や一樹に賭けを挑んでむのは、時々あることだった。勝てた試しはないが。今回もボロ負けして現実逃避で絵を描いていたのだろう。 将棋を眺めていた綾姫が、いつの間にかアルフレッドの傍らまで移動していた。 「今回は何やったの? ポーカー、ブラックジャック?」 ぺしぺしと肩を叩きながら、お気楽に声をかけている。智也も一樹も実際に金を出すことはない。だが、遊び感覚で金額を口にすることはあった。 「青天井でダイス数自由のチンチロリン……」 「何その蹂躙陵辱大歓迎? 酒飲み過ぎてトチ狂った?」 両腕を広げ、結奈がアルフレッドを見つめる。 チンチロリン。サイコロ三つと茶碗で行う賭け遊びだ。サイコロの数が多いほど賭けの配当倍率が上がるのだろう。青天井ということは、掛け金の上限も無いのだろう。 結奈の言葉通り、毟って下さいと言わんばかりの条件だ。 どん、と右手で床を叩き、アルフレッドが吼える。 「二人揃ってダイス十個でピンゾロ決めてくるとは思わなかったんだヨ!」 「バカでしょ、あんた」 「はゥア!」 結奈の一言にあっさり斬り捨てられ、アルフレッドは前のめりに倒れた。さいころ十個でピンゾロの確率は恐ろしく低い。その結果が三百兆円の負けだろう。 「ダイス十個でピンゾロかよ。大体六千万分の一か? さすがに何かイカサマ使ったんだろうけど、二人揃ってンなことするとは大人げないというか何というか」 尻尾を動かしながら、リリルが将棋を指している二人に目をやる。 将棋盤を挟む二人の傍らに、凉子が座っていた。その肩には飛影が留まっている。二人とも真剣な面持ちで対局に見入っていた。 「部長さん、少し押されてます?」 「うん、今のところはね……。と」 パチリと乾いた音が部屋に響く。 その一手に、一樹の眉が動いた。右手で眼鏡を動かす。面倒な位置に駒を置かれたらしい。将棋盤と手持ちの駒、智也の持つ駒を順番に確認してから、 「さすが部長、油断できませんね」 「ふふ。君に言われる筋合いは無いよ」 涼しげに笑い返す智也。その眼鏡が妖しく光ったように見えた。本人たちの話だと、カードゲームやボードゲームの技術は、ほぼ互角らしい。 浩介はアルフレッドに目を戻した。 両手を腰に当て、綾姫が慰めるように声をかける。 「いつも通りお金は賭けてない、ごっこ遊びでしょ?」 「今回は……酔った勢いで現金張っちゃっタ……」 のそりと身体を起しながら、アルフレッドは囁くように答える。現金を出した。つまり、負けの金額を請求されているということだろう。三百兆円を。 「三百兆円って――アルフの祖国の国家予算くらいかなー? 出せるわけないよね」 額を押さて首を左右に振ってから、綾姫は将棋の方へと歩いていく。アルフレッドの相手をするより、対局を観ている方が面白いと判断したらしい。 「そんな冗談みたいな大金、誰も本気で払えるとは思わないでしょ。一樹は何も言わないでしょうけど、部長は黙ってないんじゃない? そういう約束事には厳しい人だからねー、何かよこせって言われてるでしょ。ま、自業自得だけど」 と、腕組みをした結奈が智也を見る。相変わらず対局中の智也と一樹。一樹は絶対に金品を伴う賭けはしないが、智也は勝負としての賭け事は嗜むらしい。負けたアルフレッドには相応のものを要求しているだろう。 「絶版の秘蔵本渡せって言ってるヨ……。ボクの宝物だったのに、部長も容赦ねぇナー。あー、ちくしょう! もう二度とギャンブルはごめんだネ!」 ふて寝するように、再び畳に突っ伏すアルフレッド。 ふと目を移すと、慎一が床に座ってスケッチブックを眺めていた。A4サイズのイラスト用スケッチブック。アルフレッドが放り出したものである。いつの間にか眠っているカルミアは傍らに置いたハンカチに乗せてあった。 「何やってるんだ?」 「どういう絵描いてるか気になったんだけど」 慎一は一度言葉を句切り、浩介に顔を向ける。信じられないとばかりにスケッチブックを目で示してから、驚きの言葉を口にした。 「普通に上手いな……」 アルフレッドの描くイラストは、アメコミと日本漫画をよい意味で混ぜたような絵柄だった。絵の基本的技術も完璧で、非常に勢いのあるイラストを得意とする。逆に、静かなイラストも当たり前のように描いてみせた。さらに、日本語の小説も書け、漫画も作れるという多方面の才能を持っている。 「こう見えても漫研二位の副部長だから。絵と文章の二刀流。しかも、両方かなりのレベルで、俺とは比べものにならない才能だ。ホント、人は見かけによらないよ」 「浩介クン、今さりげに失礼なコト言わなかったカイ?」 うつ伏せ状態から、アルフレッドが顔を上げた。 「気のせいですよ」 「ならいいヤ」 再び床に倒れて、陰を纏う。 結奈がその場に身を屈め、懐から一枚の写真を取り出した。 「そんなに落ち込まないでよ、アルフ。コレあげるから、元気出しなさい」 「……あ」 漏れかけた声を、浩介は無理矢理飲み込む。バニーガール姿の浩介の写真であることは間違いなかった。結奈が意地悪く微笑みかけてくるが、何も言い返せない。 アルフレッドはのそりと右手を伸ばし、写真を受け取る。それを見た瞬間―― 「アオオオオオォン!」 犬の遠吠えのような咆哮とともに、勢いよくその場に跳ね起きた。今までの態度が全部嘘だったかのように。写真を懐にしまい、大きな両手でがっしと結奈の両肩を掴む。満面の笑顔で、怒濤の嬉し涙を流しながら、 「オッケイ、ユイナッ! まさか本当に貰えるとは思わなかったゼィ! 約束通りの狐耳バニーガールッ! この写真は気に入ったッ、これは親愛と感謝のKIiiS、ッオ゙!」 くぐもった悲鳴が漏れる。 結奈の右足が、股間を無造作に蹴り上げていた。金的。男にとっての致命的急所を攻撃する反則技である。勢いに任せてキスしようとした姿勢のまま、アルフレッドは白目を剥いていた。血の気の引いた顔を脂汗が流れ落ちている。 打たれてもいないのに、浩介の背筋を嫌な悪寒が走り抜けた。 「うっわ……。シンイチよりエグいことするな、あの腐女子」 口元を押さえつつ、リリルが小さく呻く。 結奈が肩の手を払い、後ろに下がった。支えを失ったアルフレッドが股間を押さえて前のめりに倒れる。痛いというレベルでは無いだろう。無言のまま、か細い息を吐き出しながら、びくびくと痙攣していた。意識が身体からはみ出しているだろう。 「さすがに死んだか、アルフ?」 手の中で将棋の駒を動かしながら、智也が声をかけてくる。驚いてはいるものの、心配している様子はない。表情を引きつらせている凉子と一樹。飛影は右の翼で、自分の顔を隠していた。慎一は呆れ顔でため息をついている。カルミアは眠ったまま。 「潰されなかっただけありがたいと思いなさい」 腕組みをしながら、結奈はやたら偉そうに言い切った。 |