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第8章 のんびりとお話


 慎一はペットボトルの蓋を開けた。
 市立図書館の休憩コーナー。テーブルとベンチが、それぞれふたつ。弱めの冷房が心地よい。休日とはいえ、イベントがあるわけでもなく、自分たち以外に人はいない。時々、廊下を通る人が見えるだけ。
 紙コップに入ったアイスココアを見つめながら、カルミアが首を傾げる。
「何でわたしたちこんな所にいるんでしょう?」
「僕に聞かれてもな……。逃げてきたというか、他に行くところ思い浮かばないし。そもそも、どこかに行こうとか考えてなかったからな」
 慎一は中身の麦茶を一口飲んだ。カルミアと一緒にいることは考えていたが、二人でどこかに出かけるという所まで考えが回らなかった。感覚交換などと冗談のようなことをやった状態で、考えている余裕はない。
「これからどこか行ってみたい所はあるか?」
「そうですね」
 カルミアは視線を巡らせてから、笑う。
「もう満足しました。それほど長い時間じゃなかったですけど、シンイチさんと一緒にあちこちお出かけできて面白かったです」
 食事と買い物だけだったが、満足してくれたのならありがたい。
 慎一はカルミアを見つめて、苦笑した。
「あらかじめ準備してあるなら、色々連れて行くこともできたかもしれないけど」
「今度はそうしまよう」
「いや、勘弁……」
 期待するカルミアに、慎一は手を振った。
 感覚交換の術式はそれほど安定したものではない。正直なところ、何か異常が起こらないかヒヤヒヤしていた。それに、結奈がドジをすれば、それはカルミアに跳ね返ってくる。ここにいない身体の方も心配だった。
「次はおかしな術なんか使わないで、普通に二人でどこか出かけよう」
 慎一は宥めるように微笑みかける。
 カルミアは肩を落とす。
「分かりました。残念です」
「今日はここまでだな」
 ポケットから中継板を取り出し、テーブルに乗せる。
 それを見て、カルミアは訝った。
「結奈さんはどこにいるんでしょうか?」
「近くにいるよ。ずっと僕たちのこと観察してた」
 慎一は窓の外を指差した。三百メートルほど離れた屋根の上に、飛影とカルミアの身体の結奈がいる。アパートを出た時から、気づかれないくらい離れた場所から見張っているのは分かっていた。キスまで許可するという手紙を見れば想像がつく。
 ぐっと目を凝らしてから、カルミアは首を振った。
「結奈さん目が悪いです」
 妖精の視力は桁違いにいいらしい。視力に限らず、他の五感も人間とは比べものにならないくらい優れている。結奈の身体では、不便だろう。
 眼鏡を外したり、目を細めたりしてから、カルミアは諦めた。
「何でわたしたちのこと観察してたんでしょうね?」
「最初から僕とカルミアが一緒に出かけるのを見るのが目的だったんだろうな。大きさの違う二人の男女に救いの手を差し伸べたつもり――とか言ってそうだな」
 額を抑えて呻く。あまり感心できない理由であるのは間違いない。
 ココアを一口飲んでから、カルミアが訊いてくる
「シンイチさんは、わたしのことどう思ってますか?」
「ん……」
 質問の意図を探る。他意はなく、単純に疑問に思ったようである。
 三秒ほど考えてから、答えた。
「そうだな。新しい家族が出来たみたいだよ。気の許せる妹みたいで、毎日楽しいし。うちの家族とは安心できる関係も築けないから」
「……もしかして、家族と仲が悪いんですか?」
「違う違う」
 心配するカルミアに、慎一は笑って否定した。
「日暈の連中は血の気が多い。僕を見てれば分かるだろ? のんびりと気の許せる相手がいないんだよ。兄弟ケンカは……打撲出血骨折当たり前、文字通りどっちかが動けなくなるまで殴り合ってるし。一族内の私闘は厳禁なんだけどね、殺し合いになるから。でも死なないんだけど――」
「凄いですね」
 カルミアが素直に驚く。
 端から見れば、狂っているとしか思えない。守護十家の他の面子にも、危ないと見られているのだ。もっとも、自制心も並外れて強い。自分を制御できなければ、一族が滅ぶのは目に見えている。
 話題を変える気分で、慎一は訊いてみた。
「カルミアは僕のことどう思ってるんだ?」
「お兄さんができたみたいですね」
 迷うでもなく、カルミアは答える。少しだけ照れくさそうに。
「わたしは妹と姉が二人いるんですけど、お兄さんとかはいないんですよ。優しくて頼りになって、お兄さんがいたらこんな感じなんだろう、って思いました。シンイチさんと契約して本当によかったと思っています」
 結奈や飛影からも兄妹みたいと言われている。仲の良い妹ができたらこんな感じなのだろうと漠然と理解していた。
「慎一さんもお兄さんと妹さんがいるんですよね。どんな人ですか?」
「そうだな………」
 慎一はお茶を一口飲み、故郷の家族を思い浮かべた。
 まだ家族のことは伝えていない。黙っている理由もないが、カルミアが教えて欲しいと言うこともなく、なんとなく今に至っている。
「兄さんは僕よりも温厚そうに見えるな。長男なのにいい加減で、次男の僕がこんな性格になってる。二刀流の使い手で、まだ二十二歳だけど他の守護十家の正式退魔師よりも数段強い。今は大学四年で大学院卒業したら帰ってくるらしい」
 兄の達彦を思い浮かべ、慎一は笑った。とぼけているようで剣呑な長男。今は都心の大学に通っている。大学の後輩に唐草分家の長男と森棲分家の長女がいると言っていた。
「千歳は、本当に日暈の人間かと思うことがある……。なんというか、我が儘っぷりが結奈に似てるんだよなぁ。日暈の血は引いてるし、合成術も使えるのに、何でだろう? 無駄に元気な高校二年生十七歳……」
 天然ボケの兄と、脳天気な妹。自分も血の気が多い問題児だったが、悠長に暴れている余裕もなかったように思える。それでも元気に暴れていたような気もするが。
「タツヒコさんに、チトセさんですか。面白そうですね」
「面白いことは面白い」
 両親と家族に感謝しつつ、慎一は笑った。
「カルミアの姉妹ってどういうのだ?」
「うーん。のんびり屋の姉さんたちと元気な妹と、仲良く暮らしていました。今でも手紙のやりとりしていますよ。みんな元気にしているようです」
 カルミアは懐かしそうに視線を上げる。故郷の家族を思い出しているらしい。卒業試験と言っていた。人界に留学しているとも表現できる。
「名前はやっぱり訊いちゃいけないのか」
「ごめんなさい。それは、教えられません」
 妖精に限らず、精霊は人間に真名を教えてはいけない。人間に真名を知られると、魂を奪われる。その結果は、崇拝めいた絶対的忠誠と完全なる従属。精霊は相手が信用できる人間でも、自分の真名を明かすことはない。
「妖精も大変だな」
 コンコン。
 窓を叩く音に、視線を動かす。
 窓の外に、飛影と結奈がいた。
 慎一は椅子から立ち上がり窓辺に移ると、鍵を外して窓を開ける。
「ただいま戻りました」
 挨拶とともに飛影が室内に入ってきた。外の手すりから窓枠に飛び移り、翼を広げてテーブルの上に移動する。
「おかえりなさい」
「早かったな」
 それぞれ声を上げると、結奈が飛影の背中から飛び降りた。数歩歩いてから、腰に手を当てる。不敵な眼差しで慎一とカルミアを交互に見やってから、
「まあね。あたしも飽きちゃって。せっかくデートの機会を上げたんだから、キスのひとつもしてくれれないとね。でも、あんたたちにそんなこと期待するのは酷だったわ」
 両腕を広げて、首を振りながらため息をつく。露骨に呆れた身振り。
 何とも言えぬ表情のカルミアと数秒見つめ合ってから、慎一は視線を下ろす。両翼を広げて、疲れたように首を振る飛影。結奈に目を移してから、告げた。
「元に戻ったらとりあえず殴るから」
「何で!」

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