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第1章 感覚交換


 慎一は眉根を寄せた。
「いつものことながら……」
 アパートの和室。卓袱台を挟んで、結奈が座っている。自分で持ってきたクッキーをぽりぽりと食べていた。草色のブラウスと白いスカートという恰好で、ポニーテイルの髪も下ろしている。外出着らしい。
「今度は、何思いついたんだ?」
 土曜日の昼前に休んでいるところへ、いきなりやってきた結奈。
 卓袱台に腰を下ろしているカルミア。結奈の横に正座している飛影。人の姿は三時間ほど維持できるようになったらしい。
「空飛んでみたくなって」
 唐突な発言に、慎一とカルミアは顔を見合わせた。意味が分からない。飛影がどこか諦めに似た表情でかぶりを振っている。
「オレは止めたんですけど……。姉ちゃん、全然聞いてくれなくて」
「というわけで、カルミアの身体、貸してくれない?」
 結奈はにっこり笑ってカルミアを見つめる。やはり意味が分からない。
 きょとんと瞬きするカルミア。
「わたしの、身体……ですか?」
「そうよ。カルミアにはあたしの身体貸してあげるから」
「それって、ええと、精神の入れ替えですか……?」
 結奈の言葉に、カルミアはおずおずと聞き返す。
「似たようなものね」
 あっさりと頷く結奈に、慎一は頭を抱える。突拍子もないことを言うのは予想していた。だが、精神交換を行いたいと言うとは思わなかった。
 結奈を睨み付け、慎一は唸る。
「正気か、お前……? まがりなりにも守護十家の一員。術理論習ってないわけないだろ。精神交換がどれほど危険か、知らないとは言わせないぞ」
 心抜きの術。そう呼ばれる忌術がある。互いの精神を入れ替える術だ。憑依の術の高度な応用と言えばいいだろう。しかし、術式は公開されていない。理由は単純、術の使用に高い危険性を伴うからだ。一級の術師以上の者でないと安全に使えない。
「知ってるわよ。人間同士の精神交換は脳移植みたいなものだから、成功しても数時間で身体が拒絶反応示すわね。良くて身体から弾き出されるだけだけど、悪ければそのまま身体と同化するか……精神がばらばらに破壊されて身体ごと死亡。肉体と精神を分離させる作業だって、生身の人間には危険ね」
「ましてや、人間と妖精――無謀すぎる」
 慎一は続けた。人間同士でも危険な行為である。人間と妖精で精神交換などしたら、何が起こるか分からない。前例もないのだ。
 結奈はポケットから金属の板を取り出した。
「でもね、感覚交換なら安全でしょ?」
 放ってきたその板を受け止める。
 文字と文様の描かれた、十センチ四方の銀色の板。材質は銀の合金らしい。複雑な術式が見て取れた。術式の解析は得意ではないが、じっと観察する。
 カルミアが問いかけた。
「感覚の交換って、精神交換とどう違うんですか?」
「精神を元の身体に残したまま、五感と身体へ指示権を交換するのよ。一見すると精神を交換してるように感じるけど、精神は元の身体に残したまま、相手の身体の感覚を把握して、身体を動かせるのよ」
「よく分からないです」
 結奈の説明に、眉を寄せるカルミア。確かに分かりにくい。
「つまり、LANケーブルか……」
 板を眺めながら、慎一は納得した。方法は聞いたことがある。
 この板を媒介として、両者の感覚のみを交換する。パソコンに例えるならば、入出力のみの交換。やけに面倒くさい方法だが、一応擬似的な精神交換となる。
「しかし、安全なのか?」
「安全よ。一度友達と試してみたから。ちゃんと相手の記憶とかも読める……といっても、あくまで必要な範囲内でだし、身体が拒否する記憶は呼び出せないわ。これなら、妖精の掟も守れるでしょ」
「面白そうですね」
 結奈の解説に、カルミアは興味を示す。
「食事もできるし、ジュースやお酒も飲めるし、味わえるわよ。カルミアも人間の食べ物食べてみたいと思わない? いつも水ばかりじゃ味気ないでしょ」
「はい。みなさん、ご飯が食べられて、ちょっと羨ましいです」
 畳みかける結奈に、頷くカルミア。
 さらに、ポケットから取り出す、運転免許書。
「こないだの合宿で車乗った時、『凄いです!』ってはしゃいでたけど、実際に運転してみない? あたしの車貸してあげるわ。親のだけど」
「うわ、ホントですか。是非運転してみたいです!」
「おい、待て!」
 慎一は口を挟んだ。とんとん拍子に進んでいく会話。
 結奈とカルミア。二人して不服そうな眼を向けてくる。
「単純に空飛びたいなら、飛影と感覚交換すればいいだろ。何でカルミアなんだ?」
「妖精の方が可愛いから」
 あっさりと言ってのける結奈。
「ははは……」
 飛影が乾いた笑顔を見せた。その表情からするに、一度声を掛けられて、全力で拒否したのだろう。結奈に身体を貸すのは、かなり勇気がいる。
「それに、万が一のためにあんたの力が必要なのよ。何かあったら、この中継板を合成術で破壊してちょうだい。中継システムが壊れて、元に戻るから」
「あのなぁ」
「はいはい、説教は後で聞くから」
 慎一の手から、中継板を奪い取る。
 板をカルミアの前に置いた。
「あなたもこの術式確認してみて」
「はい。……難しい術ですね」
 板を撫でながら、カルミアは術式を眺める。自分自身の知識と照らし合わせて安全なものか確認してるようだった。
「そもそも、こんな術どこから拾ってきたんだよ」
 慎一は根本的な疑問を口にした。
 感覚交換は、あまり実用性がない。五感が得た情報を中継板を通し元の身体に送り、脳で処理、その反応を中継板を通して元の身体に送る。必然的に時間と精度の誤差が起こる。日常生活では困らないが、素早い作業や細かな作業には向かない。
「誰が作ったのかは知らないけど、偵察用に試作された術ね。飛影のことで実家戻った時に、偶然見つけたのよ。あたしなりに調整してみたわ。あんたの考えたような問題があるから、遊びにしか使えないけどねー」
「この術式なら大丈夫です」
 カルミアは中継板を持って、飛び上がる。
 結奈は中継板を右手で掴むと、カルミアに向けた。
「じゃ、さっそくそっちに右手を触れさせて」
 言われた通りに、カルミアは中継板に右手を触れさせる。
「本当に大丈夫なのかよ……」
 慎一が心配しているうちにも、術は構成されていった。中継板から伸びた術式が二人の身体を包み込んでいく。
「発!」
 発動の声とともに。
 二人の身体が崩れた。後ろに倒れる結奈と、卓袱台の上に落ちるカルミア。
「姉ちゃん」
「おい。大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。ちょっとびっくりしましたけど」
 言いながら起き上がったのは、カルミアではなく結奈だった。結奈の声であるが、口調は紛れもなくカルミアのものである。頭を押さえて、首を振っていた。
「ま。一瞬意識が飛ぶのは慣れないわね」
 そう言ってカルミアが起き上がる。
 術は成功したようだった。

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